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言葉の力、生きる力 (柳田 邦男)

(注:本稿は、2012年初投稿したものの再録です)

事実の物語化

 2・3年前に買っていた本です。1冊の本としては、本当に久しぶりに手にとる柳田邦男氏の著作です。

 柳田氏の著作を集中的に読んだのは学生時代ですから、もう30年以上前になります。「事実の時代に」に始まる一連のシリーズのころで、柳田氏の「事実」に対する真摯な態度とそれを追及する執着心には大いに刺激を受けた記憶があります。

(p16より引用) 70年代以降、・・・「事実」というキーワードを冠したノンフィクション論のエッセイ評論集を、自分の存在証明を賭けるほどの意識をもって、何冊も発表してきた。それは、50年代の学生時代に味わった、実存する人間の現実を無視したイデオロギー優先の政治論に対するアンチテーゼの意味をこめての表現活動だった。

 本書は2000年から2001年ごろに書かれた小文を再録したものなので、当時の柳田氏の考え方における「事実」を扱う姿勢やそれを伝える「ノンフィクション」という手法に対する捉え方には、現時点では、少なからぬ変化が見られます。

(p17より引用) しかし、ここにきて、私はノンフィクションという表現活動に行き詰まり感を抱くようになった。・・・その限界あるいは危険性を感じるようになったということだ。
 とくに問題なのは、事実主義が蔓延するようになったことだ。事実であれば、あるいは面白ければ、プライバシーでも何でも書いてしまう当世のジャーナリズム。・・・

 もちろん「事実」であるからといって、無条件に、他者を踏みにじることが許される治外法権的権利が与えられるものではありません。

(p17より引用) 私がイデオロギー優先へのアンチテーゼとして、「事実」というキーワードを提起した時、戦争や災害や事件の被害者の悲しみや心の傷みに対する豊かな想像力に支えられた配慮という要素は、言わずもがなの前提条件だった。しかし当世は、そういう前提条件はすっぽ抜けて、カラカラに乾いた事実主義が闊歩している。

 柳田氏は、こういう「事実至上主義」を否定します。そして、「ノンフィクション的表現形式」には、そういった傾向を助長する惧れが内包されていると考えはじめたようです。
 事実の「正確」な開陳ではなく、事実の取捨選択とそれらの再構成という文脈化による「物語性」に新たな意義を認めたのです。

言葉の力

 柳田氏は、高校時代に中原中也の詩集を手に取りました。そして、その一篇に綴られた「月夜の晩に拾ったボタン」という言葉が、「自分だけが大切に思うものを象徴するキーフレーズ」になったと語っています。
 この言葉を抱き続けて年月を経るうちに、この「大事なもの」というボタンの意味には、さらに「生を支える」大事なものという意味が加わり膨らんでいきました。

(p54より引用) 胸に刻んだ言葉というものは、人生の歩数とともに、内実の変容をも加えて、成長し、膨らみ、成熟していく。

 自らの精神経験の深まりによって、「言葉」に潜在化していた意味を掘り出し、それを磨き上げていくといったことは確かにありますね。

 さて、本書の中盤は、人の生死に向き合った方々の日記やエッセイを取り上げて、「命」「生き方」に関わる様々な柳田氏の考えを披露しています。

 たとえば、少年時代の「悲しみ」の経験の大切さについて。

(p143より引用) 悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源になるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる。

 悲しみを受容し、その中で人生の「肯定的な意味」を自らのものにしていく、精神的な成長は、「強さ」「明るさ」の発揮やそれらのみを是とする教えだけでは深まらないのです。

 そして、本書後半では、柳田氏は、「マスコミ」「行政」等にかかる時事問題を材料に、それらを観る視点・視座等について綴っています。
 そこでのキーコンセプトは「2.5人称の視点」です。

 ひとつの説明材料は「少年法」
 この法は、加害者たる少年の保護・更生を目的とした刑事訴訟法の特則的性質の法律ですが、悲惨な状況に追い込まれた被害者の救済については、その法律の視野には全く入っていません。被害者の両親が加害者(少年)の審理を傍聴することすら却下できるのです。

(p232より引用) 一般人の考えから見るならば、重要な当事者である被害者の親がどのような人物に如何なる理由で大事なわが子を殺されたのか、その真実を知るために、審理に同席して審理の内容を傍聴し、自らの心情についても語りたいと願うのは、当然の権利だと思うだろう。
 しかし、不思議なことに、裁判官という法律の専門家は、そういうことは「無駄だ」と考えるのだ。

 こういう「専門家」の乾ききった目に潤いを与えるものとして、柳田氏は「2.5人称の視点」を掲げています。二人称の立場に寄り添いつつも、第三者的な客観的視点も失わない立ち位置です。

 こういう多層的な人間的な関わりにも重きを置いた「成熟したものの見方」は、バーチャルなコミュニケーションが増しつつある現代において、ますます欠くことのできない大切な姿勢になるのだと思います。



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