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ゴルギアス (プラトン)

 プラトンの著作は、ちょっと前にも「プロタゴラス」を読んでみましたが、本書は、参加しているセミナーでの課題図書として指定されたので手に取ったものです。

 例のごとくソクラテスと論客との対話形式で立論が進んで行きます。

 以下のフレーズは、ソクラテスの「対話」に対する姿勢の表明です。

(p48より引用) ところで、そういうわたしとは、どんな人間であるかといえば、もしわたしの言っていることに何か間違いでもあれば、こころよく反駁を受けるし、他方また、ひとの言っていることに何か本当でない点があれば、よろこんで反駁するような、といっても、反駁を受けることが、反駁をすることに比べて、少しも不愉快にはならないような、そういう人間なのです。なぜなら、反駁を受けることのほうが、より大きな善であるとわたしは考えているからです。それは自分自身が最大の害悪から解放されるほうが、他の人をそれから解放するよりも。より善いことであるのとちょうど同じ程度に、そうだからです。

 また、別のところではこうも言っています。いわゆる「無知の知」の構えです。

(p213より引用) ぼくたちはみな、いま話題になっている事柄について、その真実は何であり、また何が偽りであるかを、お互いに競い合って知るようにしなければならない、とこうぼくは思うのだ。というのは、それが明らかになることは、ぼくたちすべての者にとって、共通に善いことなのだからね。・・・それでもし、諸君のなかの誰かに、ぼくがぼく自身に同意をあたえていることは、事実に反していると思われるなら、その人は話の中に割り込んで、ぼくを反駁してくれなくてはいけない。それというのも、いいかね、諸君、ぼくとしては、これからぼくが話そうとしていることは、決して知っていて話すのではなく、むしろ、諸君とともに共同で探究しようとしているからなのだ。したがって、ぼくに異議を申立てる人の言い分に、何か一理あるということが明らかになれば、ぼくがまず一番に、その人の賛成者になるだろう。

 本書においてソクラテスは、ゴルギアスらの説く「弁論術」を、快楽への「迎合」として否定しています。

(p197より引用) 最善ということは無視して、・・・ただ魂の快楽だけを問題にし、どうしたなら魂に快楽がもたらされるか、ということは考えているけれども、快楽のなかでも、どれはより善いものであり、どれはより悪いものであるかということについては、考えてみようともしなければ、また、より善いことになろうが、より悪いことになろうが、ただ気に入られて喜ばれさえすれば、それ以外のことには全然、関心のないといったものなのである。

 ソクラテスとの対話に登場する3人目の論客カルリクレスは実際の政治家です。彼との対話は双方非常に好戦的?で、本書の中核部分と位置づけられます。
 その対話のなかで語られた「ソクラテスの政治姿勢」です。

(p262より引用) 現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行なっているのだと思っている。そこで、いつの場合でもぼくのする話は、人びとのご機嫌をとることを目的としているのではなく、最善のことを目的としているのだから、つまり、一番快いことが目的となっているのではないから、それにまた、君が勧めてくれているところの、「あの気の利いたこと」をするつもりもないから、法廷ではどう話していいか、ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。

最善を追究するというソクラテスの政治信念の表明とともに、後の歴史を暗示する内容となっています。

 最後に、不動の「ソクラテスの信念」です。

(p277より引用) ただこの説だけは、反駁にも揺がないで、止まっているのだ。すなわち、ひとは不正を受けることよりも、むしろ不正を行なうことのほうを警戒しなければならない。また、ひとは何よりもまず、公私いずれにおいても、善い人と思われるのではなく、実際に善い人であるように心がけなければならない。

 肝に銘じて守りたい言葉です。


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