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代表的日本人(内村 鑑三)

代表的日本人 -西郷隆盛-

 日清戦争のころ、内村鑑三が日本文化を西洋社会に紹介するために記した代表作です。

 著作の中では、5人の人物が様々な分野における「代表的日本人」として選ばれています。
 その一番手が「新日本の創設者」としての西郷隆盛です。
 特にこの章は、全著作をとおしてもかなりナショナリズム的な書きぶりが強めになっています。が、ここでは、現代でも通じる(ある意味では西郷でなくても語りそうな)箴言をご紹介します。

(p42より引用) 機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作り出さなければならない。

 信念をもって動くべきときには動く、立つべきときには立つということです。倒幕運動、征韓論、西南戦争と、その時々で西郷を動かしたものは様々ですが、彼は立ち上がりました。

(p47より引用)(左伝を引いて)けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精をだすので、収穫は求めなくても訪れる。
 徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。

 「敬天愛人」を座右の銘とした西郷は、「徳」の人でした。
 勝海舟は、「氷川清話」の中で「おれは、今迄に天下で恐ろしいものを二人見た」といい、その一人は横井小楠、今一人が西郷でした。

代表的日本人 -二宮尊徳-

 内村鑑三が「農民聖者」として西欧社会に紹介したのが二宮尊徳でした。

 尊徳といえば、近代国家の中では「勤勉の象徴」として明治時代の修身教育に取り上げられたことで有名ですが、逆にその反動からか、最近ではその功績等について採り上げられることも少ないようです。私も、名前以上の実はほとんど知りませんでした。(さすがに私の通った小学校にも薪を背負った尊徳像はありませんでしたし・・・)

 尊徳は多くの荒村の復興藩財政の建て直しに絶大な功績を残したのですが、それは、尊徳自身の能力・努力に加え「藩主の大抜擢」があったゆえでもあります。
 封建時代において一農民であった尊徳に荒廃地の再興という一大プロジェクトを任せることは簡単なことではありません。
 やり遂げた尊徳ももちろん立派ではありますが、尊徳を見出し正当に評価し身分の別なく抜擢した小田原藩主大久保忠真の「慧眼」と「決断」も素晴らしいものです。

 もう1点。
 一般的には、尊徳は「報徳思想」を唱えて農村復興運動を指導したといわれていますが、具体的なやり方は、姿勢としては「率先垂範」、手法としては「集中による成功事例の創生と水平展開」といえます。

(p108より引用) どんな規模の事業でも、尊徳が仕事にとりかかる方法は、まったく単純でした。尊徳はまず、その地方を代表する村-たいていもっとも貧しい村でしたが-そこに自分の全勢力を集中し、全力をつくして、その村を自分の方法に従わせます。これが、仕事のなかでは、常にもっとも難しい部分でした。その一村がまず救われると、そこを全地方の回心を起こす基地にいたしました。一種の伝道精神を農民改宗者のうちに起こして、自分たちが先生から助けられたように隣村を助けることを求めました。

 このあたりの説明ぶりは、キリスト者内村鑑三らしい理解にもとづく表現です。

(p108より引用) 「一村を救いうる方法は全国を救いうる。その原理は同じである」・・・「当面のひとつの仕事に全力をつくすがよい。それがいずれ、全国を救うのに役立ちうるからである」



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