TheBazaarExpress113、『ペテン師と天才~佐村河内事件の全貌』、第二部、二つの三角形、転機、メディアの饗宴、5章、出会い、96年8月

・自分をアピールする男

その年は、例年に比べれば比較的凌ぎやすい夏だった。猛暑の日は少なかったがその代わり雨が少なく、秋の作物の収穫には不安が残った。

プロ野球界では、松井秀喜はまだジャイアンツでプレーしていた。夏場になって4番の落合博満の打撃に陰りが見え始め、ライオンズの清原和博のFAトレードの噂が出始めていた。

パリーグではオリックスのイチローが健在だった。右袖には前年に起きた「阪神淡路大震災」からの復興を目指す「がんばろうKOBE」のワッペンがついている。

8月4日には映画俳優の渥美清が亡くなり、25日にはゴルフの尾崎将司が、この年出場8試合で5勝目をあげて獲得賞金を1億円にのせている。メディアでは連日、前月から猛威を振るうO-157による死亡事故が伝えられ、9000人以上の大量感染者が出たと報告されていた。世界は7月から開催されていたアトランタ五輪に沸き、国内では、橋本龍太郎内閣による行政改革が大きな話題になっていた。

そんな1996年8月末のとある日。

東京渋谷の南口にあるバスターミナルを見下ろすビルの上層階にある喫茶店で、初めて向かい合う二人の男がいた。

方や、180センチはあろうかという大柄な身体を黒い上下で包み、長髪をなびかせて相手を見下ろすような構えの佐村河内守、32歳。その顔面にはまだ髭はなく、サングラスもかけていなかった。もちろんこの時はまだ、「聴覚障害」は身に纏っていない。

一方は、170センチあるかないかの小柄な男で、銀縁の眼鏡をかけて伏目がちに相手を観察している新垣隆、25歳。出会うなり、佐村河内はいきなり言った。

「ぼくは凄く変わった音楽家なんです。ご飯や食事を一切とりません。いままで作ってきた音楽はこのテープの中に入っていますから、それを聴いてみてくれませんか。ぼくの夢は将来世界的な映画音楽のプロデューサーになって、お金が貯まったら孤児院を開きたいと思っています」

言葉づかいは丁寧だが、必要以上に自分をアピールする物言いだった。新垣にしてみれば興味もないことだったから、「ああそうですか」と言う以外ない。

―――しまった、この人とは会うべきじゃなかったかな。

新垣の中には、あまりに押し出しの強いその物言いに圧迫感を感じて、微かに後悔のような気持が浮かんでいたことも確かだ。まるでその後の二人の関係を予感させるかのように―――。

二人がこの日出会うことになったのは、数日前に新垣が受けた後輩のヴァイオリニストからの一本の電話がきっかけだった。

「知り合いに音楽のアレンジの勉強をしたい人がいるんですが、一度相談に乗ってあげていただけませんか」

この時新垣は、前月末から約2週間続いたクラシック音楽の若手演奏家を集めたスイス合宿から帰国したばかりで、疲れと時差ぼけで少し頭がボーッとしている状態だった。

この合宿は、京都に本社を置く電子部品メーカー「ローム」が持つ「ロームミュージックファンデーション」が主催する教育プログラムで、92年からこの年まで連続して5年間、スイス西部、レマン湖の北東部に位置するチョコレートの産地として有名なヴヴェー(Vevey)で行われていた。

参加者は、日本国内から厳選された高校大学生年代のヴァイオリン、チェロ、ビオラ奏者計20名。指導には、ヨーロッパで活躍するヴァイオリニストの宗倫匡を筆頭に3名の音楽家があたり、新垣は、その伴奏者として5年連続で参加していた。

会場となったのは、ドイツ出身の20世紀を代表する作曲家パウル・ヒンデミットがかつて住んでいたと言われる古い山荘(ラクロア山荘)だった。壁には何枚ものヒンデミットの描いた絵がかけられている。学生たちはそこで寝食を共にしながら10日間にわたってレッスンと個人練習に励む。演奏されるのは課題曲ではなく、各自が持ち寄った曲であり、合宿の最後にはアンサンブルの曲も演奏されることになっていた。

96年のその合宿で新垣は、ヴァイオリンの全員とビオラとチェロの半数の奏者の伴奏を受け持っていた。だから彼ら彼女らの要請に従って伴奏する曲は何十曲にもなる。学生たちは二日に一回指導者のレッスンがあり、あとは自由練習となるが、新垣は連日7、8コマのレッスンや個人練習に付き合わなければならなかった。ほぼ休みなしの状態だ。

それほど人気があったのは、伴奏者としての新垣の特質にあった。ピアニストというよりも、作曲家でありながらピアニストの才能も持つ存在であったことが大きいと、この合宿に参加していたヴァイオリニストの礒絵里子が言う。

「新垣さんは近現代の楽曲を全て網羅する知識を持っています。楽曲の構成をしっかりと把握した上で伴奏してくれるから『支え度』が違うんです。もちろんピアノも上手で色彩感もあるし、どんな曲でも初見で弾けます。まるでオーケストラと演奏しているような安心感があるので、私たちは新垣さんに伴奏をお願いすることが多かったのです。キャラクター的にも大人しくて真面目だし、それでいて音楽の知識は豊富で聞けば何でも教えてくれる優しさと包容力もあります。みんなからすごく愛されるキャラクターでした」

帰国直後にかかってきた後輩からの電話にも、新垣は優しかった。

「いいですよ。ぼくの家に電話するように言ってください」

するとほどなくして、佐村河内と名乗る男性から電話がかかってきた。挨拶も早々に、佐村河内は言った。

「実は今度映画音楽を担当することになりました。ところがぼくは弦楽器のアレンジに慣れていないので手伝ってほしいのです。とにかく一度会ってお話したいのですが、お願いできませんか」

何だ、アレンジを勉強したいと聞いていたけれど話が違うなと新垣は思った。けれど映画音楽と聞いて、新たな興味がわいたことも確かだった。この時新垣は25歳。桐朋学園大学音楽学部の研究科を終了し、前年から同大学の非常勤講師として、大学付属の桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)で教壇に立っていた。卒業後すぐに非常勤講師の職につけるのは優秀な証拠だった。

大学では、この頃同大学の学長を務めていた作曲家の三善晃の門下にあったが、高校時代から作曲家、ピアニストである中川俊郎の指導を受け、彼が作曲するCMソングや映画音楽等にも強い影響を受けていた。常々、「中川先生のような仕事がしたい」と思っていた新垣には、この話は魅力的だった。

―――映画音楽ならやってみたいな。

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