神様の頼み事
最近お会いする方やいただくメッセでよく「体調どう?」って聞かれるなあ…なんでだ?と他人事のように思ってたんですが、FBが人間ドックネタで更新止まってたんでした。爆
国内外あちこちに出張してて、海外から戻って来たところです。
東京の執務室を長く離れてたので帰国日からびっしりスケジュール埋まってるんですが、時差ボケなのか半分寝ボケてて使い物にならないこと以外は、おかげさまでぴちぴち元気にしております。
齢50、もうあの頃の全力少年じゃない…!
帰国日から予定入れるのは二度とやめような。
今年の年始、ふと心に浮かんだのが「今年はたくさん旅をする年に」だったんですが、不思議なもので振り返るとほとんど毎週あちこち出張し、旅しながら働き暮らす年になってました。
人生で初めての沖縄出張もあって、海が好きじゃない、車運転できないって理由だけで沖縄を訪れなかった自分をコラしたくなるくらい!本当に本当に素晴らしくて、魂が震えるような聖地やご縁に感謝し続ける旅路でした。
夏の果て、島のさいはてにある神秘の森と竜宮神を訪ねたら、静かに一人祈り、泣いている方を見かけました。
沖縄には古い言い伝えがあって、50前後くらいの年齢で神事が降りてくる人がいるそうです。
神様から、島の人々や国のため、未来のために、その人にやってもらいたいこと、祈りに行くべき場所が降りてくる。神様の頼み事。(正確な書き方じゃなかったらごめんなさい)
聖地と呼ばれる場所にはその頼み事に専心し、優しい祈りを捧げる人がいて、もし会っても話しかけたり写真を撮ってはならない、祈りを妨げてはならないとのこと。
自分以外の誰かや何かのための幸福な未来を祈るという、純粋な願いがもつうんと清らかで柔らかな力が、聖地という土地のエネルギーをさらに強くあたたかく育み守り続けているのかもしれません。
私がお見かけした方が何を祈り、何に涙されていたのかわからないけれど、何かや誰かを深く深く愛しているのだろう、と思いました。
古い和歌の言葉では「かなし」は「愛し」と愛の字があてられています。悲しみ涙する切な祈りは、深く愛している厳粛な姿のように思うのです。
大切な何かを愛すれば愛するほど、自分にできることはほんのわずかなこともなく、先回りも心配という名の束縛や依存も、執着からも離れて、ただただその人らしく幸あれと祈り、そうあることを信じることしか、残らないような。
だから神様の頼み事というのは、自分がこうあってほしい、あるべきというコントロールの意思を離れて、無心にただその人らしさを祝福し愛でて祈りなさい、という意味なのかもしれません。
誰かや何かや、一番大切な自分自身のために。
そんなことを感じ学び続ける、たくさんのご縁に恵まれた旅路でした。
今年はありがたいことに年末まで、まだ見知らぬ、だけどきっと他生の縁で結ばれた地と人を訪ねる旅の日々が続きます。
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