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「眼の前にいるのに」の恐怖

【家族の肖像】
たとえば「昭和の家庭」であれば、朝食の席、というルーティン化された「朝」があった。お父さんがテーブルに座っていて新聞を読み、お母さんは朝食を作って家族にサーブし、子供は学校に行く支度を終えて朝食のテーブルにつく。そこで家族のちょっとした会話が交わされ、その後、子供は学校に、父親は職場に、母親は家にいて、という、ね。今は働く時間もみんな同じ時間とは限らず、父親の帰りが遅いのは当たり前。母親も働くことが普通だ。食事は外で食べるなどして帰り、母親は子供が学校から帰るにしても、スマホで近所の友人たちと交友している。子供もスマホで近所の他の子と遊ぶ約束や学校であったことなどを話を(メッセージングなどで・無言で)している。母親は夕食を作るのが面倒くさくなるから、スーパーやコンビニでお惣菜を買ってきてお皿にも盛らずにパックのまま出す。「家族」は、同じ場所に居ながら、みな同じものを見て同じように考えているわけではない。眼の前にいるその「人たち」は、なんだろう?

【「昭和」は終わった】
結局、便利に効率的にしてこないと、人類の生存が保証されないくらい、世界は本当は貧しくなり、必然的に時代とともに家族像も変わらざるを得ない、というだけのことであり、「あの時代」にノスタルジーを持って、それをなんとか維持しようとしても、無理がある。と言うに過ぎない。自然に任せれば、古いものは朽ちていき、新しいものがその上に繁栄していく。これは自然の摂理である。誰もがそこから逃れることはできない。たとえ執着があり懐かしくとも、それは諦めなけば先に進めず、先に進まなければ人類は生きていけなくなる。時代とともに万人が共通に持つ「理想」は一つではなくなり、時代を重ねるごとに「新しいもの」が「古いもの」を駆逐していく。日本という地域に限っても、全く同じことが言える。変化はあるのが自然の普通なことであって、変わらないほうがおかしい。そうしないと、家族という小さな社会単位でさえ生きていけないからだ。過去に留まりたければ生活に見合わない多大なコストをかけるほかはなく、大抵はそのコストは高すぎて払えない。

【スマホと家族】
日本の今の家庭では「家族団らん」があったとしても、小さな子供であれば、どこか行楽地に家族で行く時くらいだろう。それは日常ではなく「非日常」である。家庭そのものも数十年昔と同じ形をしていない。そして、そこに変化の象徴としての「スマホ」が入る。子供は母親との食事のとき、テーブルにスマホを持ってきて友達と会話しつつ時間を過ごす。母親からして見れば「眼の前にいるこの子供と同じ空間を共有しているように見えて、実はしていない」という事実に気がつく。それを不快と思っても止める術は全くない。そうしなければ、人間は社会が作れず生きていけなくなるからだ。

【スマホとビジネス】
スマホがビジネスの場にはいってくる。会議のときもスマホをいじって、会議以外のことでもコミュニケーションを取る。会議の主催者が「この場ではスマホを使わないように」と言えば、上司の言いたいコトを言うだけの会議では無理がある。スマホ片手にその会議参加者は不満気にスマホを閉じるが、そのスマホには時々刻々と変わる状況がメールなどで入ってくる。リアルタイムのビジネスの流れを切られたその「ツケ」は、ビジネスそのものに響く。上司の司令などはメールで送ってくれればいいのだ。余計な会議は時間の無駄だ。古き良き時代のようなのんびりした時代ではない。会議をしながらスマホをいじるのはOKという会議も増えた。そうしないと、ビジネスの流れの速さについていけなくなり、それが業績に関わることも多いからだ。時代の流れに鋭敏な感覚を持つ経営者はそのことに気がついていることも多い。Amazonの会議は(手間のかかるパワポではなく)A4の紙一枚で短時間でやる、というのはそのことを象徴しているだろう。ビジネスは効率が全てである以上、結論はそうなる。

【流れている以上もとには戻れない】
時間とともに変わっていくのが「人との関わり=社会」だ。人は変わっていくしか生きる術を持つことはできない以上、その流れにいかに乗るかということが重要なことである。できれば早くその流れに乗りたい。頭で普通に理屈を考えればそうなる。「情」は長いあいだの「慣れ」で作られる。だから、「情」に関わると時間から遅れていく。それでいて「情」は多くの人が持ち、それもまた社会の流れの中にあるものでもある。完全に切り捨てる事はできない以上、本当に自分にとって重要な意味を持つ「情」だけが自然に残る。そして「あなたが大切にしているもの」と「私が大切にしているもの」が違うことが鮮明になって自覚できるようになる。あるいは「自分とその人の持つ情が同じものだった」ことがわかってくる。そこから社会の再編、家族というものの再編が行われる。

【スマホは「象徴」】
スマホはそういうことを自覚的にした。加速もさせた。そういう道具であり、時代の流れを示す象徴的な「道具」でもあり、一方で「象徴」でしかない。同じ流れの違う世界ではスマホは別のものになっていたかも知れない。「スマホ脳」という言葉がある。それは「スマホが(自分では変えたくないと思っている)時代の様相を変えた悪者だ」という表層的な捉え方である。その認識はわかりやすいが、そのわかりやすさは「底の浅さ」でもある。いや違う。もっと深いところで、我々の社会は常に生きるために変化している。その奥深さと複雑さが多くの人に見えないのであれば、人類には暗い未来しか見えないはずだ。「象徴」を「悪者」にして「それをなくせば全て良くなる(自分が慣れ親しんだ前の時代に戻る)」と思ってしまう、その「底の浅さ」の自覚から、より深い世界への思考の旅が始まる。時間とはそういうものに使ってこそ、意味がある。

【眼の前にいるのに】
子供は目の前にいる。子供は自分がこれから生きていく社会である「子供の世界」をスマホのネットワークで作っている。そこに親は入り込めない。自分が常に思考を巡らせ、変化して成長していく子供をしっかりと見て、子供から親が学ばなければ、親の明日も危ういだろう。

時代の変化とはそいうものだろう、と、私は思っている。

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