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「いい話」で終わるな 赤べこになった母によせて 

この文章を僕は幸運にも公開された翌朝、10/1の早朝に読んだ。
そして100人目の『スキ』を押した。
『スキ』とはこの文章が掲載されたnoteというSNSにおける『いいね!』ボタンだ。

僕がバズった文章を目にするときは常にその文章がバズった後だ。
でもこの文章に関しては僕はバズる直前に目にすることができた。そして自分のFBでシェアした。僕のシェアからも何人かがシェアしてくれた。
今この文章には12085の『スキ』がついている。

そして続編が今日10/27に公開された。僕は運良くこの続編も公開当日に読むことができた。
続編もいい話だった。でもこの続編を読んで僕は懸念した。
個人的な勝手な懸念だし、僕は前の文章もこの文章も大好きだ。

大好きであるがゆえに懸念したことを書く。
たくさんの人がシェアされている感想に「いい話」というワードをやたらと目にする。
この正編と続編を読んだ読者の間で、この文章が単なる「いい話」として消費されてしまうならものすごく勿体無い。

作者と弟の関係はものすごく素敵なものだし、間違いなくいい話だ。
だからこそ一般に「いい話」として消費されてしまうのが、勿体無く感じて悔しい。
いい話はその裏のたくさんの体験によっていい話になっているのだ。氷山の頂上だけを見て「いい話」と消費したくはない。

僕には親族に何人かの発達障害の人がいる。
僕の娘がお世話になっている小学校には知っているだけで2人のダウン症の女の子がいる。
僕はダウン症の子どもはよく目にするけど、ダウン症の大人をあまり意識してみたことはない。

弟くんはダウン症。そして姉との関係においてこれはとても「いい話」だ。
僕はこのきょうだいの関係や母との関係、そしてこの文章において起こっている様々な人との人間関係を「いい話」だと思う。
でもダウン症の人だって一人一人違う人間だし、全ての人の周りに赤べこ姉や母がいるわけではない。

地元の小学校に通う2人のダウン症の女の子。僕は朝、彼女たちと挨拶をする。
ひとりは登校班と一緒に登校して、僕を見つけると必ず近寄って握手をしてくれる。
もうひとりは遅刻ギリギリに母親と登校して、僕が挨拶しても反応しない。

で、何が言いたいの?って。
この話は「いい話」だけど、これをただ望遠鏡で遠くから眺めて、ただ「いい話」で終わるのは勿体なさすぎる。
この話を自分の身近に置き換える。氷山の下を解像度を上げた顕微鏡で覗いてみる。

そうすれば社会の中の個性、大人も子どもも健常も障害もノンケも性的少数者も。
全てを個人と捉えることのきっかけになるのではないか。
それだけの力がこの2つの文章にはある。

「いい話」と荒い感想をつぶやくのと同じくらいにどうでもいい個人の思いかもしれないけど、書いてしまった。
をれほど僕はこの2つの文章に心を動かされたということ。
勝手にいろんな心配をした上に、それを発表せざるを得ないくらいに。

弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった
奈美にできることはまだあるかい?〜赤べこ姉弟は滋賀に来た〜

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