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冬のエデンの園で

昨日、久しぶりに太陽が照ったので、私が「生きた里山—身近なパラダイス」と呼んでいる近くの高原牧草地に、娘たちと一緒に散策に出かけた。

一面真っ白の雪景色。空気は乾燥し、透き通っている。サッカーのワールドカップ決勝戦の1時間前だったので、人もあまり居なく、深い静寂が支配していた。

森に縁取られた開けた牧草地に果樹やミズナラの木がまばらに立っている。アフリカで誕生した人類の祖先が長い間暮らしたサバンナの風景、それから旧約聖書にある楽園「エデンの園」に通じるものがある。

そんな身近な楽園の雪景色のなかで、去年から何度も読み返して感銘を受けている著名な神学者ヨハネス・ハルトルの『Eden culture エデン・カルチャー』に思考が流れた。ハルトルは、「結びつくこと」「意義を持つこと」「美しさを求めること」という3つの人間らしさの再興を提唱している。そして、それらを排除、もしくは軽視してきた近代から現代にかけての思想や理論、様式を鋭く批判している。

デカルトは「我思う。故に我あり」で、人間を理性的な生き物に還元した。食べたり、匂ったり、触ったり、体を動かしたり、見たり、聞いたりして、五感で感じることと頭で考えること、すなわち体と脳の思考、感性と理性は密につながっているのに、それを分離して捉え、理性に偏重する社会風潮をつくった。

フロイトは、人間の心理を、無意識の本能や衝動という機械論的な生物学的概念に還元した。生きる意義やモラルといった人間の高尚さは、彼のモデルではあまり意味をなさないものに格下げされた。

マルクスは、ヘーゲルの哲学をラディカルに唯物論的に読み、「世界精神」を抜き取り、人間を経済活動のなかの生産物に還元した。

ダーウィンは、人間の発展を「強いものが生き残る」という生物進化理論に還元した。宗教心などに基づく人間の高尚な意志は、人間の発展には関係のないものとみなされる風潮をつくった。

20世紀の思想や学問に大きな影響を与えた構造主義は、人間を社会環境が生成したモノに還元した。個々人が持っている資質や思いよりも、その個人が置かれている構造(社会環境)が決定的な役割を果たす、と。

モダニズム建築は「Form follows function 形態は機能に従う」の「機能」から精神的・主観的な機能性を取り除き、唯物的で客観的な機能性に還元した。

これらは、ヒューマニティの損失を促進させ、人間をモノや対象とみなすことで尊厳を傷つけ、自然の搾取を助長させた。

身近な楽園の白い静寂のなか、ハルトルに触発されて、「なぜ人間は還元・集約するのか」考えた。それは物事を秩序立てて整理したい、という欲求から来ているのか? 管理・制御したいという思いからなのか? 支配欲から来ているのか? 

一方で、これら還元・集約とは逆の、統合・融合の思想や理論も並行して登場してきている。

心理学者のユングは、一時期、深い親交もあったフロイトの理論に異論を唱えた。彼は、歴史、宗教にも関心を向け、人間の無意識の奥底には人類共通の素地(「集合的無意識」)が存在すると考えた。ユングは、フロイトのいう無意識は抑圧された「ゴミ捨て場」であって、自分のいう無意識は「人類の歴史が眠る宝庫」と称した。

ヘッセは、個々人の心の在り方、精神性が、人間社会の発展において大切だという信念を持って、数々の作品を遺し、20世紀の社会、とりわけオルタナティブな運動に大きな影響を与えた。

シュタイナーは、「人智学(アントロポゾフィー)」を創設し、それまで物質的世界に制限されていた科学的研究方法を、精神世界の研究へと応用し、それは、現代にも継承されるホリスティックな建築、農業、医療、教育へと派生していった。

ガイヤ理論やディープエコロジーも、人間の精神世界を含むホリスティックなアプローチである。

私の専門分野である森林では、ホリスティックなアプローチの代表的なものとして、メラーの恒続林思想がある。

現代のドイツの社会学には、ローザの共鳴(レゾナンス)の理論がある。彼によれば、人間には、人との共鳴である「水平軸」のレゾナンス、モノや仕事 との共鳴である「斜め軸」のレゾナンス、そして宇宙や神、宗教、もしくは自然との共鳴である「垂直軸」のレゾナンスがある。

分類、分化、分析してきた学問に対して、「アンチディシプリン(脱専門性)」という、分野の垣根を取り払い、分野融合的にアプローチする新しい手法が、現在、世界で注目され始めている。

これらオルタナティブな思想や理論は、何がモチベーションになってできたのか、考えてみた。秩序立てたい、管理・制御したい、支配したいというモチベーションが主体ではないだろう。未知のもの、制御できないものに対する好奇心、敬意や畏敬の念や、共感し、調和したいという思い強かったから、生まれたのだと思う。

静寂のなかで、そんな思考をしたが、家に帰ったらすぐ、テレビをつけ、庶民的な現実世界に戻った。ワールドカップ決勝戦はハイレベル。最後の最後までドキドキさせる、歴史に残る好試合だった。審判も良かった。最後の表彰式で、尊厳を傷つけるような傲慢な振る舞い、軽率な振る舞いがいくつかあり、残念だったが。


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