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踊り踊らば

踊り踊らば 三十まで踊れ 
三十越えたら 子が踊る

 ふとした思い立ちで岐阜県郡上市の「郡上おどりオンラインライブ配信」アーカイブを流し見しつつ書いている。そしてその踊りの群れに圧倒されている今である。何に対して目が潤んでいるのか訳もわからず、あえて言葉にするなら、「春駒、春駒」のイントロとともにおおよそ50を数えるZoomの1ページ目の画面は皆々が振り付けを揃えられる素晴らしさといった所であろうか。

 わたしはこの郡上おどりについて、遥か大昔の風習を受け継いだ徹夜踊りが残る場所として理解している。十数曲の演目にはそれぞれの振り付けがあって、歌と演奏に囃子言葉が合わさって、皆が一心不乱に踊り続ける。この踊りの輪が広がっていく魅力(あるいは魔力)というものを私自身、地域の盆踊りを通して知っているつもりだった。しかし、どうだろう。見渡す限りの人々が朝日の昇るまでを同じ空間で過ごす一体感、高揚感というものを味わったことがないというのもまた事実である。

 一つ、盆踊りについて。わたしが好きな逸話を述べてみたい。それは親縁の関係にある人と人の踊る姿が宿るとの言われである。踊りの輪の中では曲に合わせた振り付けを揃えたとしても個人個人のわずかな違いが現れて、その違いをよくよく思い出せば親兄弟、姉妹、先祖、誰かの後ろ姿が重なって見えてくるという。特に若い女性の所作、真っ直ぐ歌う声にそれらを思うことがあるのだそうだ。
 わたしの経験を言えば、二十歳そこらの若いなりでたまたま目にした他地域の踊りに大きく大きく手と足をばたつかせて、そうやって色んな輪に加わって。最終的に生まれ育った地域へと戻った際には「あんたの踊りは爺ちゃんともそっくりだね」と笑ってくれる女性陣にぽかんとしていたようだ。

 元来、二世代三世代と同じ場所に集まっては、祖父母に親と子が踊りの輪を組むのだからきっと自然な成り立ちなのだろう。かつての出会いの場としても機能した盆踊りは娯楽や教育といった多様な意味が合わさって盛り上がっていた。それを知らずにただの決めつけで避けていた時期もあった。が、今を改めて見ても魅力とともに人々の残り香が感じられる。

「踊り踊らば三十まで踊れ、三十越えたら子が踊る」

 その囃し立てに幼い子供の姿は見当たらないけれど、それぞれの若かりし頃が蘇るようでもある。わたしはまだ見ぬあなたと一緒になって踊る日を望んでいる。

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