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アイスランド映画――2022年5月

 テレビがなければプロジェクターもない自室で映画を観ようとすれば、PC画面と向き合わざるをえない。ただ、その画面の小ささか音の平さゆえにか、どうにも集中できない。90分の映画でも、30分ごとには一旦止めてしまう。つまらないものを観ているわけではない。けれども、その気になれば自由に振る舞える環境で観ていると、どうにも集中できないのだ。時計を見ることが憚られる真っ暗な映画館のなか、ここでお前はこの映像を見るしかないのだ、と強いられないと――自ら望んで代金を払ってそうされているのだが――映画を一気に観ることができなくなって久しい。○○を観た、と誰かが口にするときにオンラインでしか配信していない作品名を耳にすることが珍しくなくなったが、以下に紹介する3作は、いずれも筆者が2022年5月にアイスランドの映画館で観たものである。


『Milli fjalls og fjöru』(『山と浜のあいだ』)

 国営放送局RÚVやNetflixなどで配信されるドラマやドキュメンタリー番組を見るのは得意ではないが、食指が動いたものには目を通すようにしている。ただ、やはりできれば映画館で観たい。そこで重宝するのが、ビーオウ・パラディス(Bíóparadís。「シネマ・パラダイ」の意)というレイキャヴィークにある映画館だ。そこではRÚVで放映されるより数か月前に国内映画が上映されることもあり、なるべく足を運ぶようにしている。すこし前のものでは、アイスランドの森についてのドキュメンタリー『Milli fjalls og fjöru』(山と浜のあいだ)が面白かった。

 考古学、民俗学、生物学など、様々な知見から、とくにアイスランドにおけるカバノキとのかかわりについて扱う作品だった。この手の作品の約束事のように冒頭で中世の詩が重々しく読み上げられることから始まり、やがて木によって扱いやすさが異なると語る木工職人や、アイスランドでもカバノキの樹皮が紙代わりに使われていたのではないかと研究を続ける歴史学者、虫や鳥たちの棲家としての森について語る生物学者などの声を通し、森林面積が国土のわずか約2%である北欧の島国でアイスランド人がどのように木と向き合っていきたかを窺い知れた。現在必死に植林を行うアイスランドでは、20年後には国土面積の2.6%が森林になると予想されている。アイスランドの森は、大陸の北欧諸国にあるような鬱蒼としたものではなく、低木も含めた小さなもののままではあるだろうが、豊かな森林のある国を目指そう、と明に暗に訴える作品であった。

 このドキュメンタリーを観てから、アイスランドのカバノキに特異さに興味が湧き、パラパラと慣れない専門書をめくるようになった。ヒメカンバのような特徴がありながらも、遺伝子的に混ざっているわけではないらしいアイスランドのカバノキは、他の木より逞しく自生している。もし、レイキャヴィークから南回りで、南東部にある氷河湖ヨークルスアウルロウン(Jökulsárlón)までいくのなら、その途中、スカフタフェトル(Skaftafell)という場所で広大な黒い平地を通ることにある。スケイザルアウルサンドゥル(Skeiðarársandur)と呼ばれるそこは、氷河末端から流出した融氷水によって形成された扇状地の平野だ。氷河と海岸に挟まれたその地を延々と走っていると、そのうち人の背ほどの高さもない若木が点在するのが目に入るかもしれない。それは、その地にいつの間にか根付いたカバノキだ。ほとんどの観光客が走り抜けるだけの道のはずれでひっそり育つ木々は、このまま何事もなければ、菌類、虫、鳥などが住む豊かな森になるかもしれない。

予告映像:https://www.kvikmyndavefurinn.is/axmedia/trailer/MillifjallsogfjoruTrailer40sekNET.mp4 (Kvikmyndamiðstöð Íslandsより。)


『Uglur』(『フクロウ』)

 欧州の映画祭で上映されることはあっても、日本にまでには到らない。そんなアイスランドの映画は沢山ある。そのうちの多くは、アイスランドでも大きな映画館でなく、ビーオウ・パラディスでひっそりと上映されるにとどまる。もちろんそれは、良作でないことを意味しない。映画『Uglur』(「フクロウ」の意)は、立ち寄った映画館で何の気なしに観て、もう一度観たい、と静かにではあるが、強く思った一作だった。

 人里離れた土地にパウトル(Páll)という男が住んでいた。食料として川で魚を獲り、毎日フクロウの絵を描いて過ごしている。誰かと交流を持つことは殆どないが、心に深い傷を負っているようだ。そこへ、エリザベト(Elísabet)という女性がやってくる。顔にひどい痣のある彼女は、どこかから逃げてきたらしい。町でとはまったく違う生活をするパウトルに戸惑う彼女だが、乗って来た車は故障して、他に行く宛てもないので、しばらく彼の元で暮らすことにする。エリザベトがそこでの生活に慣れてきた頃、彼女を探しにひとりの男がやって来る。

 本作は、ドメスティック・バイオレンスについての作品だ。愛情の名のもとに行使される暴力で心身に傷を負うのは、「大したことではない」と言い張るエリザベトだけではない。彼女を気遣うパウトルにも、重く辛い過去がある。無数のフクロウを描き続けてきた彼が最後にとった行動と、それへのエリザベトの反応を映画館で目にしたとき、「確かにそんなものなのかもしれない」と納得した。だが、エンドクレジットが終わり、5月になって随分と明るくなった町に出ていくと、ふとラストの主人公たちの表情が気にかかった。あっけらかんとした顔をしていたと思ったが、本当にそんな顔をしていたか、それとも自分がそう見たかっただけなのか。確かめたくなったが、私が観たのが最後の上映回だったため、まだ確認できていない。


『Berdreymi』(『正夢』)

 色々な人が絶賛して薦めている映画だからと言って、自分にとっても良い作品かはわからない。良いとしても、自分が薦めることはできないかもしれない。グズムンドゥル・アルナル・グズムンドソン(Guðmundur Arnar Guðmundsson)監督の『ハートストーン』は、私にとって、そんな映画だった。冒頭のカサゴのシーンからひたすら胸が痛み、最後のシーンには救いがあったとしても、ずっと息苦しかった。実体験から共感するなど、登場人物と自分を重ね合わせるのではなく、ソウル(Þór)たちの話を観客として見ることが、苦しかったのだ。これは、同監督の最新作『Berdreymi』(『正夢』)でも同様だった。

 若者の非行、とくに暴力が問題になっているアイスランド社会を舞台とする本作の予告映像を見ると、いじめについての物語かと思うかもしれない。確かにその一面はあり、冒頭をつらく思う人はいるだろう。だが本作は、大人からすると幼く愚かに見えるかもしれない少年たちが、自分なりに必死に生きのびようともがく姿を描いた作品だ。彼らは全能感に浸って好き勝手に振る舞っているのではない。どこに越えてはいけない一線があるかをわかっていて、そのギリギリの手前で自分の存在を確かめている。そんな危うさの中でしか、なんとか自己を立たせられないのかもしれない。ただ、数を重ねるごとに、守るべき境界線は曖昧になっていき、ちょっとしたきっかけで、誰かがその一線を越えてしまう。ときに、周りを巻き込んで。

 もし登場人物に自らの行為の理由を尋ねると「そうするしかなかった」と答えるだろうか。それ以外の選択肢はなかった、と。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。すくなくとも私は、すぐに提示できる答えを持ち合わせていないし、作品内で提示されているわけでもない。英題「Beautiful Beings」は、刹那的な彼らのことを指しているのだろうか。そうだとすれば、彼らの剥き出しの生を「beautiful」と形容することに違和感はあるが、たしかに美しいシーンがあった、と観客の私は肯うことに躊躇いはない。ただ、人に薦められるかと言うと、二の足を踏んでしまう。よかった!と力強く述べるよりも、他の観客がどう思ったのか、その感想を聞きたいがために、ぜひ見てほしい、と知人友人に言って回りたい。そういうことに観客を駆り立てるのが、よい映画なのかもしれないけれど。


 ここで紹介した他にも、最初から最後まで下品な下ネタが満載のB級映画や、自死についてのドキュメンタリー映画など、様々なアイスランド映画を観たが、それらについて話すのは、また別の機会にする。

(文責:朱位昌併

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