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『幸せに成る』という言葉が招く勘違い【本日の呪い】

「幸せになりたい」「幸せに成りなさい」「幸せに成るために」と、そう言った言葉を自分で発したり、周りの大人に言われたり。
日本に産まれて生きてれば、そんな経験がない人はほぼ居ないと思うけど。

幸せ』を特定条件揃えなきゃ『成れないモノ』だと思わせて、誰か都合で扱いやすい社会を作る駒にする為の『幸せモデル』を叶えても、しかめっ面やへの字口を張り付けて幸せそうじゃないオトナ溢れるこの現代。

なのに、何故か「結婚できない」「彼氏・彼女いない」「子供がいない」etc
だから自分なんか幸せに成れない』という理由を探しては、自己肯定感をゴリゴリ削り、更に出来ない自分探しをする事で
幸福感の真逆の不幸の海に沈みに行く、みたいな感じの人達をリアルでもフォトギャラリーの使用通知から覗く方々の世界でも。決して少なくない数を、見聞きしてしまうこの昨今。

なのですが。がっ!

そもそもで、皆の言う『幸せ』ってナンダロネ?(°ω°)

と、猫なオイラは不思議なのですよ。

んでもって、『幸せそう』って自他共に見てて自分が思う場面って、猫の頭で思いだし考えてみるのだけれどもだ。
所謂「幸せオーラ」みたいな明るい表情に自然になっちゃう場面って、
道端で猫達に合えたとか、何か咲いてる花が綺麗とか、窓に張り付く目が合ったヤモリ可愛いとか、興味のあるモノひたすら調べたら新しい事分って面白かったとか、ただただダラっと過ごした一日の眠ってる時間が至福とか、ライブの音の色や景色が最高だったとか、仲間とやってるナニカが楽しかったとか、ひたすら趣味とか『自分の好き』について好きなだけ語らう時間とか、ずっと目指してた事が上手くいった瞬間とか、応援してた誰かが夢を叶えた時だとか、ただただ天気が良くってほかほか陽向や木漏れ日が心地よいだとか。

ソレって、全部瞬間の「感情の起伏の一つ」だし。
一度幸せを感じた条件」も、幸か不幸か日常になってしまえば慣れるようにプログラムされているのは 人間含めたいがいの生き物の常なので。

何かに特定の条件に『成る』ことで、同じ感情が一生キープされるなんざぁ無い訳で。

幸せになる為には ~ でなければならない』みたいな文脈が、そもそも非現実で実現しようのないモノじゃぁないかって 猫なオイラァ思うのだ。

でもね、『不幸になる条件』ってのはたぶん有る、って思ってて。

ソレは2つ
一つは、明らかに心身に危険がある状況で、『常に不安』がある状況。
もう一つは、好きなモノがあって・楽しい事が出来て・嬉しい事が有っても、ソレを上塗りするくらい「自分は不幸だ」って思考に囚われて、
幸せの感情」を感覚できなくなってしまうこと。

とりあえず、前者の場合は可能な限り、極力逃げよう・抜け出そう。
とは言え、生まれた家がいわゆる機能不全家庭であるとか、それまでの恩や情すらすり減るほどの親の介護なんてのが典型的な例だけど。そうそう投げ出させてもらえないモノ、とかもある訳で。コレの対処は、少しでも楽になる利用できる制度や周りの助けは受け取るとか、時間による解決とか、心の安全地帯を作るとか、弱音や嫌だは溜めずに吐き出すとか、いっそ問題じゃなくなるくらい強くなる(←コレは万人向けではない)とかあるけども。
とても長くなりそうだから、また別の「呪い(テーマ)」として、上手くまとまったら別枠で書いてみようかと。

後者のソレは本当に、傍から見ればお嬢様育ち、一生食うに困らない旦那の収入、欲しい物は何でも買える生活とか。傍から見た『幸せに成る条件』みたいのを満たしてるのに、常に周囲の些細な言動に不満を感じ、何をしてもらっても文句を言い、人より恵まれた環境のありがたさを感じる事もなく、「私は可愛そうな人」として生きてしまうような人が典型的な例だけど。
実はコレ、オイラの母方の婆ちゃんが死ぬまで一生こういった、新旧兎に角ごちゃまぜに「不満のコレクション」をすることに人生を使った人なので凄く実感あるのだが (※オヤジは「小作と結婚するなんて!」って言われる家の出の町工場の職人だったので、オイラ自身は大田区の町工場街の塀を走り回るような半野生児のドラ猫育ちです)。
一緒に笑った瞬間も、誰かからしてもらった嬉しいも、全然記憶に入れないで不満ばっか思い出にしちゃうって。そういう生き方してるのが、好きであるなら良いのだが。いまわの際の最後まで一生文句を言ってたし、本人も周りも ずーーーーと しんどいて。
本人が 幸か不幸かしらんけど、ソコに居たい?と思うので。
そうじゃないなら今一度、条件とかは取っ払い自分の気持ちや感情がふわっと幸せになる時を、しっかり感じてみることをオイラァお勧めしちゃうのだ。


〇〇すれば幸せに成れる」と対になる「〇〇でないから幸せに成れない
の呪いのイメージを、自分に刷り込みをしてくる人達に関しては。

サラリーマン技術者だったころ、「アンタも早く結婚して幸せになりなさい!」って言ってくる保険のオバチャンによく言った、
「ところで〇〇(結婚)できて、おばちゃんは幸せなの?(・ω・)」って、ドストレーとな質問のカウンターの呪い返しがお勧めか。

(この質問に、そりゃぁもう(ハート)って、ノロケ話始めちゃう人もオイラ個人的に面白くて好きなんだけれども。だいたい生活含めた幸せは悲喜こもごも、面倒事もある訳で。このカウンターぶっ込むとゴモゴモと口ごもっちゃって、たいがい呪いの圧力はかなり減るよに思うのだ)


まぁ何だ、ちょっと長くなったけど、ようは

幸せは
『成るモノ』じゃなく『ただの感情の起伏の一つ』

って、ソレを知ってるソレだけで『〇〇だから幸せじゃない』なんて誰かが決めつけた目的に向かわすその枠に囚われないでいられるし。
そもそも、ただの感情なのだから「いつでも幸せに成らなければけない」、なんてものじゃなく。喜怒哀楽、どれも否定をする必要 ないんじゃないかというお話し。

きっと自分の感情への感度、さえ見失わずにおれたらば。
布団があっても地べたでも、陽だまりの昼寝の幸せなんてので
十分に満たされちまうなんてのも猫でなくてもできるのだ。



ただの猫の戯言ではありますが、少しでもナニカのきっかけになれていたら幸いです(´ω`*) 猫なので餌付けしてもソレだけで懐くことはナイですが、それでも良ければいただいたものはポチの珈琲代やご飯代になります。 コメントをいただく場合は、「はじめまして」の※の注意事項をご一読願います