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132「墨東綺譚」永井荷風

114グラム。永井荷風の手にかかると蚊の湧くどぶさえも何か風流なものみたいに感じられるが、実際のところ口の中まで蚊が飛び込んでくるようなところで肌を脱ぐ仕事などしていられるものだろうか。

 玉の井という私娼窟でゲリラ豪雨にあった「わたくし」がたまたま傘に飛び込んできたお雪という女と親しくなる。夢を見せられているような話であるし、何とはなしに落語みたいだ。

 お雪はテキパキと人懐っこい人でちょっと傘を借りただけの相手にやたら親し気である。どこの誰とも知らない「わたくし」を自分の宿へあげ目の前で胸をはだけて化粧をはじめたりする、警戒心なく人の懐に飛び込む様が魅力的な人だ。

「何だか檀那になったようだな。こうしていると。箪笥はあるし、茶棚はあるし……。」
「あけて御覧なさい。お芋か何かあるはずよ。」
「よく片づいているな。火鉢の中なんぞ。」
「毎朝、掃除だけはちゃんとしますもの。わたし、こんな処にいるけれど、所帯持は上手なのよ。」
「長くいるのかい。」
「まだ一年と、ちょっと……。」

 二人は夢中で話しているが、読んでる私は気になるのだ。芋は、どうなった。
出会ったばかりでいきなりポンポンといい調子で進む二人の会話はそれっきり芋に戻らず、お雪の出身の話になっていく。
 綺麗好きな性格だと感心しているところに、茶棚を開けてもいいと言われて開けずにいられるものだろうか。「お芋か何か」がどんなものか、気にならないものか。もっとジロジロいろいろ見なさいよ。

 そんな下衆な好奇心でいくともうひとつ気になってしまうことがある。いつ二人が深い仲になったのかちょっとわかりにくいのだ。身仕舞を終わったあとの二人の会話。

女は衣紋を直しながらわたくしの側に坐り、茶ぶ台の上からバットを取り、
「縁起だからご祝儀だけつけてくださいね。」と火をつけた一本を差し出す。
わたくしはこの土地の遊び方をまんざら知らないでもなかったので、
「五十銭だね。おぶ代は。」
「ええ、それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引込まさず、そのまま差伸している。
「じゃ、一時間ときめよう。」
「すみませんね。ほんとうに。」

 ここで「一時間」ということで話が成立している。
 しかし読みすすんでも、相変わらずの整理の行き届いた茶の間で、お雪さんはお茶漬けなど食べ始め、そうしていて「わたくし」はすーっと帰ってしまうのである。
 おや、この二人、どういう関係なんだろうか。

 よく読むと、お雪がお茶漬けを食べはじめるシーンは、例のお芋の謎が解けるという点で下世話な好奇心には大切だ。

女は茶棚の中から沢庵漬を山盛りにした小皿と、茶漬け茶碗と、それからアルミの小鍋を出して、ちょっと蓋を開けて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋の煮たのである。

 ……薩摩芋の煮たのだったのか!
  もやもやとひっかかっていた疑問が晴れてすっきりする。
先ほどはスルーだった「わたくし」も、ようやく食べ物への下世話な好奇心を起こしたとは感心。そう思ってよく読むと芋のことを言われたくだりから、その正体を確認するまでの間に、土砂降りだった雨が小降りになっているのである。
 そうか。この間に、あの決めた一時間が経っていたのだ。その余裕をもってアルミ鍋の中を覗いたのか。
 あんまりさらさらと書いてあるから食い意地がないと、見落とすところだった。

 夕立のおかげで偶然知り合い、深くなる。女は「おかみさんにして」などと言うほどの情がわいている。男も「もう十歳若ければ」などと逃げつつ、そのあともこっそり顔だけ見に行くほど深く愛着はしている。
 それなのに、結局は、季節が変わってなんとなく行かなくなって小説は寂しく終わるのである。

 やけに色っぽい茶棚の中の薩摩芋と、真夏の玉の井の暑苦しい風景と、お雪さんの率直な会話だけが胸に残って、何か絵を見たあとのような印象だけ残して消える。

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