記念講演実行委員会『安保闘争六〇周年記念講演会記録ー甦る、抵抗の季節』を読んで

とは言ったもののですね、そんな大層なことは何も言えませんわ。
大した知識もありませんし。でも、ずっと気にはなっていたんですよね。

安保闘争、またはあの時代にあった学生運動、というものに。

いや、ちょっとは若い頃(今から30年近く前かしらね)になんとなく調べたりはしましたよ。でも、そこまで深くは知ろうとしなかった。あさま山荘事件とか、内ゲバによるリンチ殺害とか、そんな暴力的な側面に若者特有の妙な興奮を憶えつつも、心の底から嫌悪感を感じた記憶もあるし。

つまりは、自滅したんでしょ、って感じで理解してしまってたんだなあ。あーりゃりゃ、若者の愚かさと笑ってくださいな。

だって、当時は一見、妙な宗教団体が選挙にで出てたりしても、なんか変な人が出てるねーって笑って、そんな、のんきな平和な空気に浸りきっていましたからね。その後に起こることも知らずに。

いや、ちょっと武田砂鉄的な「なんかいやなかんじ」は間違いなく感じていたし、自分が偏見まみれに解釈していた「学生運動がもたらした連帯・熱狂から狂気への変化」と、同じ匂いはしてたんですよね。

この人たち、正気か?って。

あ、また話が逸れてしまいまいたわ。堪忍。

それから、今に至るまで学生運動には、気ままにちょいちょいと軽く調べたりはしてたけど、まあ、働いているとそんなことまで関心を寄せる余裕はなくなりますよ。正直な話。

で、今は幸か不幸か、鬱になりまして、時間がある、と。

今現在のこの国、社会の在り方そのものに、ずっとここ最近、違和感あるいは危機感しかなかったもんで、そいじゃあ、ちょっくら、日本のことをちゃんと考えてみましょうか、となった訳です。そうでもしないとやってられない、っというかね。

あ、一応言っておかなきゃならないのは、小学生時代を広島で育ってましてね(まあ、noteの記事に何度も書いてますけども、すんません)、当時の素晴らしき担任の先生が、戦争についての教育をしっかりやってくれたんですね。なので、私の体の中には骨の髄まで、「反戦主義」なるものが沁み込んでいるんですね。

まあ、そんな大前提で、最近、Twitterでたまたま知った新聞記事で歴史学者の加藤陽子という、素晴らしい「推し」と出会いまして、加藤さんの著作を軸にして日本の近現代史を学び直そうと日々、色んな本を読んでいる次第でございます。

例えば最近読んだ本を挙げると以下の通り。

半藤一利・保阪正康との対談本『太平洋戦争への道 1931-1941』
奥泉光との対談本『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』
単著『この国のかたちを見つめ直す』※これはまだ、半分まで
大江健三郎『ヒロシマ・ノート』
ルース・ベネディクト『菊と刀』※これもまだ半分…
※併読が自分の読書スタイルに適しているのだと、この年齢になって気づきましたわ。これ以外にも別ジャンルで併読している本が幾つもありまして。おほほほ。

ちょっと保守的な目線もと、今は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』を読んでいる最中でこれも、神武天皇を軸に「天皇」という存在を神話的側面を交えての論考で、今のところはとても興味深く読めてます。

今の年齢なりの思考力?でこういった歴史について本を読んでいると、やっぱり全然理解度が違うんですよね。まあ、私自身学歴がないもので、そこはすごく勿体ないことをしたなあ、とも思います。

人文や歴史、心理学などを若い頃に戻って学びたい、って思いますもん。

一方で、私の中高時代を振り返って、「日本の近現代史」をほとんどちゃんと学んでいない、とも思うわけですよ。小学生高学年に学ばせてもらったあの素晴らしい、女性の担任の先生。この先生が、原爆に対しての教育は勿論のこと、日本のアジア諸国に対する侵略行為の数々も、ちゃんと涙ながらに教えてくださいました。

だからこそ、中学になって広島から東京に越してからの、先ずは「原爆」の不在に驚くことになるんですね。教科書では、ほんの数行で終わってしまう。あれだけ小学校時代、時間をかけて徹底的に教わったことを教科書の数行で。いや、一頁はあったかも?知らんけど。天と地ほどの温度差にちょっとびっくりというか、ショックでしたわ。

あとね、広島の担任の先生は沖縄本土で起こった悲劇も教えてくださった。それが、東京ではどうですかね?これも、一瞬で終わった記憶がありました。ん?教わったか?教わったよな、多分。ひめゆりの塔ぐらいは…。

いったい、これは何なんだ?同じ国でも、こんなに違うものなの?

そう混乱しましたね、私は。でも、誰にもそんなことは言わなかった。だって、平和だし。過去のことと言えば、そうかもな、自分の感覚がおかしいのかもな、そんな風に流されて行ったのは否めませんわね…。

それから長い年月を経て、今、こうしてなぜか、「自分なりに学び直すべきだ」と思って、日本の近現代史に関連した本を読んでるんです。

あ、あとK-POP好きが高じて、先日あるガールズグループで起こったちょっとした炎上をきっかけにして、竹島・独島の問題もネット(インターネットで政府HPや大学の研究発表など)を中心に色々と調べて学んでます。
そんな中、韓国に造詣が深い人がTwitterで薦めていた、玄大松『領土ナショナリズムの誕生: 「独島/竹島問題」の政治学』という本を知りまして、早速図書館で借りて、今手元にありますけども、中々読むのが難しい本のようで…何とか頑張って読んでいきたいとは思ってますわ。自信ないけど。

あ、あともうすぐ読み終えそうな斎藤真理子『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』も非常に学びになる本でして、これはまた別の記事に書いてみようかなと思っております。

長くなりましたな、すんません。いつものことでしてね。堪忍。

それで今日、本題の記念講演実行委員会『安保闘争六〇周年記念講演会記録ー甦る、抵抗の季節』ですけども、あっという間に読み終えたんですね。

これはタイトル通り、安保闘争から60周年を期して、2020年6月10日に行われた講演を収めたものなんですね。タイトルは仰々しいけれど、保阪正康と高橋源一郎の御二方の講演内容を主として、それ以外にも当時の学生運動当該者も少しではありますが、講演内容をまとめられて書籍にしたものです。当時はコロナ禍の只中でありましたから、開催自体危ぶまれたようで、非常にある種、緊迫した状況下で行われたもののようで、それでも開催したい、という主催者側の熱意もまた感じます。

この講演会そのものが、あの頃、学生を中心にした安保闘争という学生運動とは何だったのか?それを今一度、どう若い世代へ伝えていくべきなのか?といった、壮大なテーマを持ってはいますが、若輩者ながら生意気ではございますが、そりゃあ、まとめるのは難しいですわね。

でも、ご一読をお薦めいたします。

私のような、漠然とした「安保闘争」「学生運動」というものの認識を持った人、それで尚且つ、知りたいのだけど、どこから入るべきか?なんて思っている人には、是非とも読んで頂きたい。

この本は、第一歩として非常にコンパクトで読みやすいと思います。
漠然とした印象が、少し霞が消える感覚になるくらいの感覚は得られると思いますので、気軽に手に取って頂きたいな、と。

高橋源一郎さんの若者へのアプローチに対する話は非常に示唆に富むもので、私自身とても考えさせられました。次の世代へ繋げるという意味でもとてもとても、大切な指摘だと思いました。

そして、何より保阪正康さんの歴史観を通した安保闘争は、やはり傾聴に値するもので、あらためて新たな視座を得られるものでした。

保阪さんの話や、これまで加藤陽子さんの著作・対談本などを含めて、今あらためて感じることがありますの。

日本人には依って立つ、共通のものがない、ということに。
それが「天皇」なのか「日本国憲法」なのか、何より「第9条」なのか。

人それぞれ、漠然とした認識のもとに、平和な日本に暮らしているということ。それは保阪さんが指摘する、江戸幕府による270年ほどの長い太平の世に培われた「日本人的な基盤」が何なのか?例えば個人的には外(アメリカ)から視た「日本」が浮かび上がる『菊と刀』にヒントがあるような気がしてなりません。

ただ、歴史上、当時の世界的な流れ、「西欧帝国主義」と日本も向き合わざるを得なくなり、その中であらゆる政治的思惑により天皇を利用した王政復古から、明治維新になり、あまりに性急な帝国主義を纏うことによって、軍事主義が暴走していまうシステムを孕むものになってしまった…すみません。すごく雑にまとめると、そんな流れで表現できなくはないのかなあと思いつつ、やはり、歴史のそこかしこに私たちが見直すポイントがあると思わずにはいられません。

それも含め、敗戦の歴史を学ぶことの重さにも思わずにはいられない。
タモリがいつだったか「新しい戦前」とテレビでふと言ったことの意味をもう少し、あたしらは考えた方がいいかもしれまんせんな。タモさん、結構本気で言ってらっしゃる気がするんですよね。

あらためて、安保闘争とは何だったのか?
とても重要な意味が、今だからこそ、多く含まれていると思わずにはいられないですわ。

何よりですね、個人的にはもっともよかったのは、後半に収められた、講演会に足を運んだ参加者の方々のアンケート感想文です。言ってみれば名もなき人たちの率直なあの頃の思いや、今現在の迷いや願いが率直に綴られていて、当時の学生運動の持つ意味と歴史や空気感が、ありありと感じられる気がしたのです。

日本にも、市民が一丸となって国家権力を揺るがした事実が、かつてはあった。

このことの意味を今一度、振り返り、歴史を学び、これからの日本(本当は喫緊の最重要課題なのですが)を考える一助として、この本は読みやすさを含め、とてもお勧め致します。

それから、これも保阪さんの受け売りとも言えなくはないのですが、個人的にもずっと思っていることで、「何も共通して依って立つものがなく、それでも戦争をしてこなかった」日本人だからこそある、可能性にも目を向けたいと、私は思うんですわ。

そういった意味でも、私のこころの中にある「ヒロシマ(ナガサキの含め)」の重要さ。私自身は、今年の平和式典の色々な混乱には憂慮してましてね、皆さん、イスラエルを招待するな、パレスチナ自治政府を一方は招待して、一方はしない、とか。ロシアは招待しない、とか。広島と長崎でも対応は異なる、とか。

そういったことではなく、私は平和式典には、全ての国や自治体含め、誰をも拒むものではない、と考えます。それが例え侵略国であってもです。

人類史をみた時に、17、18世紀に対外戦争を1回もしなかったというような国が、そこに何かを抱え込んでいたということは事実です

『安保闘争六〇周年記念講演会記録ー甦る、抵抗の季節』31p 保阪正康 談

保阪さんが指摘する「何か抱え込んでいた」ことを踏まえ、封建社会から歴史上稀に観る速さで西欧化・帝国主義へと変化して、そして軍事国家となり、侵略行為も行い、尚且つ、世界唯一の被爆国となり、そして「憲法9条」という世界に誇れる(例えアメリカの思惑も含まれていたとしても)、戦争を放棄した憲法を有する国であるということ。

それは「平和を真から希求する国」としての道があるのではないでしょうか。そういった意味でも、平和式典の在り様は今一度、見直されるべきでないかと、私は思います。

言わずもがな、憲法改正などと政権が訴えるなどということは、シンプルに立憲主義に於いて異常事態と書き添えておきたいと思っておりますわ。
強いていうならば、「憲法9条2項」を、「絶対にどのような解釈もできない・どんな形に於いても戦争行為に加担できない」ように改定する必要があるかもしれなませんね。

さてさて、今年の11月頃か、来年なのか選挙の行方はどうなりますことやら…。

ではお粗末ながら、これはこのnoteの課題でございまして、お恥ずかしながら短歌を幾つか。ただ、今回、大真面目な内容なので、短歌作るのしんどかったっす。

あんぽとたんぽの重みが枷となり 時代はさらに引き裂かんとす

若者は世代の中に閉ざされたいまこそ解き放ち出会うのだ

歴史は繰り返す反省しても繰り返す そろそろ学ぶ今でしょ

歴史はネットにあらず本に学ぶ ファストにもあらず本に学べ

最後まで読んでくれてありがとうございました。

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