S14-E4『May December / ゆれる真実』を聴いて感じたこと #thesignpodcast
私にとってタナソウさんのサインポッドキャストは緊急避難用の脱出ポッドのような存在だ。でも、どこも行き先はない。やがては母船へと戻ってくる訳だ。
じゃあ、脱出ポットではないか。
ま、なんでもいいわ。
昨日の病院への行き帰りに2回分を聴いた。
ひとつは『ぼくのお日さま』の回。ナミビアの回と違って腹は立たなかったけど、そもそも、あの時は私のメンタルの問題もあった。どちらにしても、どっちもいつかは観たいとは思っている。多分。
ちなみにサインポッドキャストのどの回を聴くかは、その時の気分で選んでいる。
それで、もうひとつはこの回。
ちなみにフェラーリの回は既に聴いたし、つぶやきもした。
ふん、何を英語で呟いてんだか。我ながらアホか、と思う。ちなみにこれ、chat GPTに意訳をお願いして英語にして貰ったの。何度も訂正させてさ。
バカじゃないかと思うよ、自分でも。
ま、色々とね。考えに考えて試みたことだったんだけどさ。もう飽きちゃった。
で、『May December / ゆれる真実』の回なんだけど。これが、後半思わぬ展開になってね、ちょっと私、ひどく動揺してしまった。
歩きながら、涙が止まらなくなってね。
いや、体調がここのところ本当に悪くて、メンタルもひどく落ち込んでいて、それで定期検診をしてさ、ちょっと大きな転換点になる診断にもなってね。
それで昨日はいつもよりずっとしんどかったんだけど、一駅分、いつものようにあえて歩いて、50分ぐらいかけて家まで帰りながら、この回を聴いたの。
こうして歩きながらサインポッドキャストを聴くのがさ、クソみたいな日常からの逃避なんだ。
分かってくれるかな?
で、トッド・ヘインズは嫌いでもなければ、特別好きな監督って訳ではない。4作ぐらいは観てるよ。でも、あんまりこの回は期待もしてなかった。
とにかくタナソウさんを中心に色んな人が話している、その場にいれることが、そう感じられることが、私にとって大切なことなの。勝手だけどね。
気持ち悪い?うるせえよ。
だから、ドネーションをこの間、ようやくできた。そのことは安心というか、良かった。
大事に使ってるよ、赤いトートバッグ。
パンを詰めたり、食材を詰めたり、本を入れたり、もう色々と使ってる。
今後も毎月って訳にはいかないけど、ドネーションはするつもり。必ずね。
でもね、サインポッドキャストを聴いて、一度も映画館に足を運んだことはない。
それはなんか申し訳ないな、と思ってる。
というか、12年振りにこの間、エイリアンを観にいったぐらいだからね。サインポッドキャストは取り上げてもいないし。
いやさ、正直、映画館の料金がそう容易く払えないんだ。払えなくはないよ。借金もある訳ではない。お金にすごい困ってる訳ではない。
楽じゃないだけ。その差は大きいとも思う。
それでいて、あらゆる映像配信をサブスクリプションしてる。
でも、映画館へ行くことの優先順位が圧倒的に低い。たださ、12年振りに行って、涙が出るほど、ああ映画館って良いなあ、って全身で感じたんだ。
だって、若い頃は映画監督を志してたぐらいだからね。映画に対する愛ほそれなりにあるんだよ。
5人の映画を愛する人たちが、色んな考察や視点でトッド・ヘインズが作った作品について語り合う。でも、私はずっとそこにノレないで聴いていた。
この回を聴いていて、なんか、分からないけど、今の私はこの映画を観る気にならないなあと思ってた。
というか、こういう、なんというのだろう、昔の私なら飛び付いて観たであろう映画にノレないのだ。
例えば、若い頃に、カサヴェテスのオールナイト上映に行ったり、キアロスタミやツァイ・ミンリャンに夢中になったり、ヌーベルバーグやヒッチコックに心酔したり、ソクーロフの映画を観に行って、あれは何を描いていたか、なんてことを誰かと議論したり、そんなことは、もうないんだ。
もう、ないんだよ。
私がもう50になろうとしてるから?
鬱になって休職してるから?
違うよ。全く違う。
ただただ、そんな映画に付き合ってるほど、あらゆることに余裕がないんだ。それだけ。
でも、それってさ、おかしいことかな?
余裕がある人の方がおかしいって思うんだけど。
トッド・ヘインズの特異さについて、色々と皆さんが語ってらした。
わたしは単に時代の空気を感じ取って、都度変化、または絶妙にずらしたチューニングを得意としてるのかしら、と思った。確かに人間の欺瞞を描く監督だなぁという印象はある。でも、カメレオンのように作品こどに変わる掴みどころのない作品のカラーは、監督として、それほど惹かれることはなかった。個人的にはね。
「作家で追うことこの良さ」「分からないことの面白さ」などのキーワードがポッドキャスト上で飛び交う中、私はずっとノレない。
皆さんが話す言葉がなぜか全く響かなかった。
ところが、終わりも見えた頃合いに、ゲームチェンジャーが唐突に現れた。いや、ずっと居たんだけど、中心に。
タナソウさんはポツポツと言葉を並べる。
この映画はずっとストレスフル、傷ついた
虐げられてる人、虐げる人
誰もが被害者だと思ってる、今のうつしかがみ
そして、木津さんが放った一言に対して、タナソウが捲し立てるように放った、溢れ出した言葉たち。
平等性がどれだけ加虐的か?
ここ10年見るだけ見たでしょ?
インターネット以降の民主化がどれだけ世の中に、
平等と民主性が、軋轢と暴力を生んだか
虐げられて死んでいった人のために、繋がるために生きていこうと思ってる
現実の世の中の誰と繋がるか?みたいなことを考えていたら、正気を保っていられないです
ちょっと正確ではない箇所もあるかも。でも、とにかくこの辺で急に私は込み上げくるものを止められなくなった。
私が歩いてる場所は、ほんとうに地方都市。文化的な場所はほとんど、ない。いや、あるにはあるさ。でも、都内にいた頃に比べたら、あんた、悲惨だよ。そこで暮らす人の気持ち、分かる?
エイリアンを観に行った時、12年振りに映画館に行った時に、色んな感情が生まれたんだ。上映スケジュールが数日後までしかない、とか。映画館が閑散としてる、とか。私が観た日はサービスデーで格安なのに、早朝ではあったけど、私含めて3人だけ。
そういえば今年で近所にある大きなスーパーは閉店するらしい。
毎日夜にはバイクの爆音が響く。いるんだね、まだ。でも、多分暴走族とかでは、ない。だって一台だけだし。
ある人が言った「自分のように沢山傷ついた人達に、この人達も傷ついてているという、深い共感、心地良さを感じる」的な言葉とか、別の人が言った「瞬間の快楽性」とか、なんだか怒りさえ感じてしまった。
いや、分かります。そうなのだと思う。理性では分かるけど本能が猛烈に怒りを覚える。
ある人の態度にはずっと怒りしかなかった。
タナソウさんはこんな言葉を言った。
心の拠り所がない、関係性が呪いになっている
ああ、クソったれ。全くその通りだ。
いや、タナソウさんは映画のことを言ってるんだ。
でも、私の周辺にはそれが蔓延っている。
それだけしかない。町のあらゆるところに染み付いている。だから、私は鬱になってしまった、のかもしれない。
心の拠り所がない訳ではない。
妻が居てくれる。それは支えだ。感謝しかない。
でも、彼女も神様ではいない。
彼女もまた、ある関係性に苦しめられている。
だから、互いに支え合っている。
人生、紙一重、そんなことをつくづく思う。
そんなところに、小難しい映画なんて入る余地は、ない…いや、そんなことはない。
タナソウさんの話を聞いて、この映画は必ず観ようと思った。配信で、だけど。
そういえばさ、今朝TwitterのTLにこのMVが流れてきた。
一月ぐらい前に、世界のニュースやら、自分のことやらで、あまりにしんどい時、ふと思い出してこの曲をyoutubeで聴いて、思わず英語でコメントをしたんだ。またchat GPTに手伝って貰ってね。
今見たら、イイネが12件付いてた。
それから世界のどこかにいる誰かから、返信があった。
i feel this too. sadness.all the time.
そうだね。私もだ。
でも、生きてかなきゃね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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