トーマス・ロックリーがとんでも日本史を創造していく過程を考えてみた❶
TLっぽいメディア”掲載のインタビュー記事から出てきたとんでも日本史
肌の色や姿から導き出した、新説:弥助の出自
前回のトーマス・ロックリーのコラムで、彼は日本語と英語で異なる”史実”を語っているという問題点を指摘しました。上記の新聞社さんも、同様の”手法”を多用されていることで有名ですので、英語記事の方をチェックしてみました。2022年6月5日の毎日新聞さんの記事です。
まず、この記事は、Netflixが弥助を題材にしたアニメシリーズをリリースし、ハリウッド映画化の動きも出ているという中で、出された記事のようです。
このアニメがどういう位置付けのアニメ(壮大な歴史フィクションなのか?ノンフィクションなのか?)よくわかりませんが、「最強の浪人として知られる弥助。戦いに明け暮れた日々を終えて静かな生活を送っていたが、地元の村が戦場と化し、再び刀を手に取ることとなる・・・」というので、なんとなく「るろうに剣心」っぽい感じにしたいのかな?と思いつつ・・・本題に。
さすがトーマス・ロックリーです。弥助の出自に関することにも、斬新な新設を唱えています。
「弥助はもともとモザンビーク出身という説が有力だ」と前置きした上で、「彼の容姿や肌の色はモザンビークの人ではない。現在の南スーダン付近の出身だと思う」とコメントした。
えっ!?ええええっ!?
弥助の遺体(遺骨)って見つかっていたの?
繰り返しになりますが、今回の騒動以前に、弥助は私が注目する歴史上の人物の1人でした。本能寺の変以降の弥助についての情報は、何も残っていないはずでは?
遺骨や遺体があれば遺伝子解析から、肌や目の色の推定はできます。過去には、アイスマンの遺伝子解析等が行われ、肌の色等が発表されたことがありました。あまり詳しくはありませんが、特定の遺伝子変異から、色の推定ができるという話だったと思います。とはいえ、それでもあくまで”推定”です。
似たような研究で、伊達政宗の遺骨を研究したら、眼窩異常がなかったことがわかり、彼は実は”独眼”ではなく、オッドアイ(片方の目の色が違う)でそれを隠していたのでは?という説を読んだことがあります。その場合、伊達政宗はハーフの可能性も出てきて、それは時代背景を考えた時に不可能ではない・・・みたいな説でしたが、片目を失明したという記録があるため、今でも有力なのは独眼の方だとは思います。オッドアイからのハーフ説は、全くのとんでも新説かもしれません。それでもこの新説には・・・
「ーを調べたら〇〇ということがわかってだから、△△はX Xなのでは?」
という、なぜそのような仮説を立てたのか?という根拠があります。学術って、こんなものですよね?それで・・・。
弥助の場合、どんな研究から、彼の容姿や肌の色だと推測したのでしょうか?
遺体が見つかってない限り、遺伝子解析はできませんし、文献に「黒色には300種類あってね。カーボンというよりは、ブラックオリーブ・・・」みたいな記述があるわけではありません。写真がある時代ではありませんので、姿を知る手段は絵画となりますが、絵画は必ず写実的でなければならないものではありませんし、そもそも弥助の肖像画が残っているという話も聞いたことはありません。この話題でよく出てくる黒人と日本人と思われる力士が相撲をとる様が描かれた屏風がありますが、もしかして、あの絵を見て、「あの肌の色は〜」みたいなことを言っているのでしょうか。
それに出身地のモザンビークが南スーダンに変わったとして、それが何か”TL的弥助ストーリー”に影響しますか?
トーマス・ロックリーが注目する弥助は、あくまでも”黒人侍”としての弥助。アフリカ出身で、肌の色が黒いことが重要だったはず。モザンビーク侍でも、南スーダン侍でもありません。
目的は何?
っと思ったら、ここは注意が必要な箇所かもしれません。現時点での私の知識では、南スーダンに変更する意図がわかりませんが、ポリコレ的には、この出身地変更が必須事項なのかもしれません(南スーダンに変更すると、奴隷貿易の話がなかったことにできるとか?)。とはいえ、今は、何ともいえないので、ここは心の中でブックマークを入れておきます。さらに、あの相撲の絵にも、「これはなんだ!?」という点がありましたので、それは後ほど。
繰り返される「弥助は自由人として来日した」説
そして、今回のインタビューでも「日本に来たときは、いわゆる奴隷ではなかった」説を唱えています。
Believeの方がThinkより確からしさが上になりますから、「幼少期にアフリカで奴隷になった」ことよりも、確証の度合いが減るけれど、トーマス・ロックリーとしては、「来日時には、自由人か解放された奴隷になっていたと思う」ということのようです。
だから、そう思う根拠は何よ?
なのですが、毎日新聞の記者さんは、疑問視しなかったようです。学者が有力説をひっくり返しているわけですから、根拠の説明は必要だと思うのですが・・・特にトーマス・ロックリーの場合、自分でも過去に「奴隷として来日」「信長に献上」と言及していたのですから、自説を変更した理由をぜひ伺いたいです。
1行付け足すことで史実をアップデート:昇進した弥助!?
トーマス・ロックリーによると、「信長に仕えるようになり、弥助は昇進した」ようなのですが、何から何に?
”信長に仕える”の後に、”昇進した”とあるので、信長に仕える以前の役割である”奴隷(ボディーガード)からの昇進”の意味にはならないと思います。だとすれば、前回のコラムで言及した通り、昇進が期待される侍には、”苗字”が必要になってくるかと思いますので、弥助の苗字は何?という疑問が出てきます。ですから、これも”昇進した”と断言するのであれば、何の役職からどの役職へ昇進したのか、それを示す資料は何か明らかにするべきです。
もちろん、「and was promoted. 」の付け足しくらい揚げ足をとるなという意見もあるかもしれません。しかし、トーマス・ロックリーのインタビューを見ていると、こういう些末な付け足しをコツコツ積み重ねていくことで、歴史の大改造を行っているように感じられることが多々あります。実際、前回紹介した記事の中でも、弥助の行動1つで、日本の歴史が大きく変えられたかのような誤解を与える言及がありました。
相撲をとる、弥助描かれた絵の解説にも、TL的工作の可能性も!?
江戸時代に描かれた「相撲遊楽図屏風」に登場する弥助
先ほど、絵画の中の弥助の姿から、”弥助の出自は南スーダン説”を唱え始めたのではないか疑惑について触れました。現在、Googleで弥助の画像検索をかけると、この絵が出てきます。毎日新聞の記事では、下記のように紹介されています。
ここに出てくる『信長公記』は弥助についての記述がある数少ない資料の1つです。事実を改竄する必要のないところは出典を明らかにするのだなという感想はさておき、ここで「弥助を超人的な力の持ち主」と評されており、”弥助が強かった”ことには間違いないようですが、超人的な力を持ち合わせることと、武術は全くの別物です。それにこの頃の時代背景を考えてみると、武術に長けているかどうか?よりも、武勲をあげてこそはじめて強い武将と言えるかと思います。
これは本人に聞いてみないとわからないことですが、まさか『信長公記』のこの1行を以て、”弥助は最強のウォーリアー”と言ってはいないよね?っと。
さて、ここでの本題です。
本堂の江戸時代初期(1603~1867年)に描かれたとされる屛風には、相撲をしている黒人の男性が描かれている。ロックリーは、黒い男が弥助で、近くに座って見守っている男が信長だと考えている。
来ました!
Lockley believes
ほとんど情報がないと思われる絵画ではないか?
それで、私も、トーマス・ロックリーがなぜ「黒い男が弥助で、近くに座って見守っている男が信長」だと考えたのかを知るために、一次資料を求めて検索してみました。絵画はおそらく下記の「相撲遊楽図屏風」で間違いないと思います。
実はこの絵、これしか情報がないようなのです。Googleで検索する限り、「これが弥助らしい」とする書き込みのみで、この絵に関する解説に辿り着くことができませんでした。それでChat GPTに尋ねてみた結果が下記です。
Chat GPTの特性を考えると、この絵に関するネット上の情報としては、江戸時代の庶民文化や社会を知ることができるものだということになっています。
弥助は?
上記の検索は、「相撲遊楽図屏風」という名前から検索しましたので、念の為、絵画からも検索してみました。
同じく江戸時代によくみられた光景のようです。
もちろん、Chat GPTが江戸時代の風景だと言ったからってそれが絶対正しいわけではありません。ただ、この絵が弥助が相撲をとり、信長がそれを見ている絵だとするならば、ネット上にもそのような情報が存在し、Chat GPTの検索結果にも何らかの形で出てくるのではないかと思います。
黒肌の力士が弥助と言及した、「相撲遊楽図屏風」専門?ブログ
再びGoogle検索に戻って、あの絵の黒肌の力士が弥助だと言及した元の資料を探し始めました。その中で、たどり着いた1つのブログがありました。
美術館に行って、この絵を写真撮影し、各部分に何が描かれているか説明されているようでした。と、なると、気になるのがこの方の背景情報。美術史が専門で、いろいろな絵画の解説をしているのか?それとも歴史が専門なのか・・・もしくは、トーマス・ロックリーのコンテンツから興味を持った人なのか・・・?そこでまた、驚くべきことを発見してしまいました。なんとこのブログ・・・
投稿されている記事が、黒肌の力士が弥助だという周辺情報である、
上記画像の中の5点のみ。
2021年8月4日に一気にこの5つの記事をアップして、そのまま放置。そんなブログってあります?最初の投稿から最後の投稿までにかかった時間は約30分間。3日坊主ならぬ30分坊主!?
何がしたかった(何をしようとしたかった)ブログなのか?
全く意図がわからない・・・
っということは。
とはいえ、これ以上、わかりませんので、これもまた、頭の中にブックマークしておこうかと。
長くなりましたので、一旦ここで切らせていただきますが。続けてアップしようと思うコラムでは、根拠のない呟きがなぜ日本史の新説っぽく世界に伝わっているのか?についてシェアさせていただきます。
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