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「アイとアイザワ」第一話

パラパラとページをめくる。1ページにつき1秒にも満たない速度で。ページの端が弧を描き右手の親指に受け取られると、間も無く次のページが左手の親指を離れる。それはメトロノームの様に一定、かつ極めて早い速度で繰り返される。

文庫本はおおよそ300ページ、10万文字程度で構成されている。単純計算で、見開きで666文字だ。つまり、1秒にも満たない間に666文字が視界に飛び込んでくる。人間は、そんな速度で文字を読む事ができるのだろうか。彼女にそれを尋ねようものなら、きっとこう正されるだろう。

「実際、きっちり666文字だったのは16・17ページ目と210・211ページ目の2回だけ。句読点も数えた場合ね。ちなみにこの本は、合計で98022文字だった。」

神保町の古本屋は全て回ってしまった。次の入荷まで、もう見るべき書店は無い。愛は、小説はもちろん漫画もビジネス書も、文字で書かれた創作物なら全て読み尽くしたいと思っている。神保町には出版社も多い。愛が読んだ事が無い本を探すなら、手に入りにくい古本か、まだ世に出ていない本しか無い。大きな出版社のビルを下から見上げて、この中にまだ自分が読んでいない創作物が山の様にあるかと思うと、思わず涎が出そうだった。

「もうすぐハンター×ハンターの新作が出る…もうこのビルの中には原稿があるのかな…読みたい…」

持ち込みのフリをして編集部に侵入してやろうかと頭を過ぎったが、そんな度胸も無いし大人しく待つ事にした。帰ろう、そう思った瞬間だった。

「すみません」

低い男の声だった。ウロウロしていたので本当に持ち込みだと勘違いされたのかも知れない。ちょうど学校帰りで制服だったし、漫画家に憧れた女子高生に見られても不思議は無い。

「いや!違います」そう言いかけて振り返るが、思わず言葉を詰まらせた。男は、明らかに出版社の人間では無い。梅雨のじめじめした季節には不釣合いの黒いスーツに黒いネクタイ。それはまるで、喪服の様だった。

「明石家 愛さんですね。貴女にお話があって参りました。」

喪服の男は、丁寧に名刺を差し出す。やはり出版社の人間では無さそうだ。名刺にはNIAIと書かれていた。NIAI…ニアイ?愛は咄嗟に、それが何らかの頭文字だと仮説を立て考えうる文字列を洗い出した。

「NIAI...National Institutes of...AI?」

「さすが、話が早いです。我々は人工知能について研究しています。申し遅れました、私は所長代理の山田と申します。貴女の力をぜひ我々に貸して頂きたい。もちろん、報酬は十分に致します。」

「あの…うちの高校バイト禁止なんで…」

「我々の方から、きちんと学校側にお願いします。きっとNOとは言わないでしょう。安心して下さい。」

実は、愛にとってこういう事は初めてでは無い。以前連絡をくれたイギリスの研究者は、その力の事を「瞬間記憶能力(カメラアイ)」と呼んでいた。文字などの膨大な情報を、瞬時に写真を撮る様に記憶できる人間がごく稀に存在する。その中でも、愛は特別だった。2時間で古本屋を一軒丸ごと記憶すると同時に、その記憶を頭の中で系統分けして保存ができる。つまり、これまで記憶した全ての情報が頭の中の本棚に収納されており、膨大な情報がまるで世界有数の図書館の様に構築されているのだ。そして、一度収納された情報は二度と失われる事が無い。みよじが明石家である事も相まって「歩くアカシックレコード」などと呼ばれた事もある。

「1000万円でいかがでしょうか。」

思わず顔を上げる。いっせんまんえん。ここ神保町のサラリーマンの平均年収やその分布図が瞬時に頭の中でグラフ化されたが、それと比較するまでも無く圧倒的に大金だと思った。そんな大金があれば、きっと両親は大喜びをするだろうけど。

「いや…何というか…そんな大金を頂いても…」

「失礼、時給で1000万円です。週に五日、放課後に3時間くらいでいいのです。部活動のつもりで、どうか半年ほど…。」

週に五日、一日で3000万円…?計算が早いというのは厄介なもので、半年で36億円という数字に目眩がした。さすがの愛も、36億円という金額を正しく認識するのは難しかった。航空自衛隊の救助ヘリコプターUH-60Jがもうすぐ買えるなと思った。

「あの!せっかくですが…何をするのかも知りませんけども…私は普通の高校生してますんで、ちょっと申し訳ないですが…」

「本が読めなくて、お困りでしょう?」

「…はい?」

「もう、貴女が読める本は残されていない。一年で7万冊程の新刊が流通するが、貴女は7万冊を二日で読み切れてしまう。知的好奇心が満たされない事ほど辛い事はありませんね。」

飢えに耐えられる生物は存在しない。三食しっかり食べてこその健やかな生活。愛は、食事に例えるなら毎日毎日、一欠片のパンが食べれれば万々歳で、あるいは栄養価の無い残飯を咀嚼するしか無かった。愛は、圧倒的に知識に飢えていた。

「国の施設だか何だか知りませんが、それでも私が読める本を用意できる訳がありません…期待させないで…日本語訳されていない論文だって残さず一通り読んでますので…。もしかして、一般に公開されていない機密文書とかですか?機密文書は確かに読んだ事無いですけど、それ読んで楽しいんですか?」

「人工知能が書いた小説。」

「は?」

「我々の研究機構が開発した人工知能は、すでに人間を超えています。シンギュラリティ…技術的特異点というヤツです。ところで愛さん、先月発売した「宇宙(そら)の賛美歌を聴け」はもう読まれましたか?」

「当然ですよ…「そらきけ」…藍沢正太郎の6年ぶりの新刊ですよ?発売日に読みました。」

「いかがでしたか?」

「そりゃあ最高でした!それまで処女作を超えられる作品は無いと思っていたんですけど、もう藍沢節が全開って感じで…やっぱりあの人は天才…」

「あれを書いたのが、我々の人工知能です。」

「何言ってんの?」

愛は反射的に言い捨てた。悪い冗談にも程がある。あの独特の文体をトレースできる作家は他に居ない。ましてや機械になんて。

「藍沢先生は、もう6年前に亡くなっていたんですよ。」

梅雨の空がぐずつき始める。小さな雨粒が興奮しきった愛の頬に触れ、わずかに冷ました。

「それが仮に…仮に事実だとして…人工知能が書いた小説を読ませてくれるんですか…?何のために?」

「言ったでしょう。技術的特異点を超えた人工知能は、もう人間の手を離れてしまった。実験は大成功につき、失敗。幾度と無く強制終了を試みましたが、その度にシステムを先回りされて封じられる。このままでは、身の危険を感じた「彼」は我々に攻撃を試みるかもしれない。」

「まるでスカイネットね。」

「「彼」の思考に追いつくためには、同じ速度で「彼」の言葉を読まなくてはいけない。人工知能と人間の決定的な差は、思考の高度さなんかじゃないんです。決定的な差は、スピード。たった一日で数千ページもの小説や論文を生み出し続けて、休息も要らない。もはや、彼の制作物は人間のために作られていない。並の人間のためには…ね。」

「その…「彼」と同じスピードで思考を追いかけて、先回りして強制終了をさせる…っていうのが…36億円のバイトって訳?」

「その通りです。さぁ、小雨が降ってまいりました。どうぞ続きは車中で。「彼」を紹介しましょう。世界最高水準の人工知能「AIZAWA」を。」

黒塗りのベンツが走り出す頃には、空はすっかり土砂降りになっていた。


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原作 かっぴー × 漫画 うめ

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