【小説】傷が膿んでしまわないように、アルコールで消毒してくれないか

 その男は、どこにでもいるサラリーマンのような格好だった。

 見た目は20代半ばかと思われるが、髪には白いものがまばらに入っていて、そのまばらさが、むしろ遺伝的な体質による白髪でないことを物語っている。
 ワイシャツに少し、洗濯で落としきれなかった黄ばみとアイロンで伸ばしきれなかったシワが残っていて、とはいえ、その体の疲れ切った姿勢から、「だらしなさ」というよりかは「度重なる苦労による疲労感」を醸し出している。

 彼は入り口で、ドアは開いているにも関わらず、まるで見えない壁があるかのように立ち尽くしていた。
 シスターが「どうかなさいましたか」と問いかけると彼は「入ってもいいですか?」と消え入りそうな声で答えた。シスターは
「もちろんですよ。ここはすべての人に開かれた場所ですから」
 男は申し訳なさそうに笑うと、音をたてずに建物の中に入った。

「ここはどういった場所なのですか?」
 男は入り口から一番近くの席に座ると、シスターに尋ねた。シスターは困ったように顔をしかめると、少し時間をおいてから男の隣に座った。
「そうですね、あなたの夢とでも言いましょうか」
「夢?」
「そうです。何があったのかは分かりませんが、ここに来る人は、現実で心の傷を負いました。
 それは深い傷で、ほおっておくと膿んで死んでしまいそうなもので、誰かに手当をしてもらえる人なら良いのですが、ここに来る人は大抵そういう人を身近に持ってはいませんね」
「そうですね。それは私にも当てはまります」

「ここに来る人は、そんな心の傷を、体の傷と同じように、アルコールで消毒しようとするのです。
 まぁ、体の傷には、アルコールを浸した綿を傷口に押し当てますが、ここに来る人は心の傷を消毒するためにアルコールを飲んでしまいますね。少量ならいいのですが、ここに来る人は、大量に飲むか、薬と一緒に飲んで意識を失った人たちですね」

「つまり、現実の私は仮死状態?」
 男はうつむいていた視線をゆっくりと前方に向けた。シスターもそちらの方へ目を向けると、幾何学模様のステンドグラスがあった。
「ここの住人である私には知り得ないことです」
「そうですか」
 男がうつむくと、シスターは立ち上がった。
「しかし、ここは寒くて暗いでしょう。
 しばらくの間はこちらへ。お風呂とベッドをお貸ししますから、体を洗ってから少しおやすみなさい。
 それから包帯も巻かなければ。よく見て下さい。ワイシャツが真っ赤ですよ」
 男が自分の胸を見ると、ワイシャツが自分の血で赤く染まっていた。いつ自分が怪我をしたのか分からなかった。このときになってはじめて、男は自分が立ち上がる気力がないことに気がついた。
「申し訳ありません。もう立ち上がる気力もないのです。しかし、ここで死なれるのはあなたにとっても困ると思いますから、ドアの外まで腕を支えてはくれませんか」
「いいえ、それはなりません。あなたを見捨てることは、私にはできないのです」
「ならば私の傷をアルコールで消毒してはくれませんか」
「いいえ、それはなりません。あなたはそれによってここに迷いこんだのです」
「それでは、せめて、このままにしておいてくれませんか。夢、幻の優しさは、傷を深くしてしまうのです」
「いいえ、それはなりません。あなたは、いつか、ここから現実へ帰らねばならないのです」
 
 シスターはその華奢な見た目と変わって、軽々と男を持ち上げると、建物の奥へと男を連れ去った。 男の服を脱がせて、お湯で絞ったタオルで、彼の体を拭き、包帯を巻いた。
「これも私もすべて嘘で夢、幻です。しかし、けっして忘れないように。あなたの無意識の先にこの場所があることを。現実に帰ったとき、どうしても傷が痛むなら、ここを思い出しなさい。しかし、けっしてアルコールで消毒したりはしないように」
 

    ※ 

 次に男がシスターに会ったのは、それから二週間後だった。男は前回と同じように申し訳なさそうにドアの前で立っていた。
「また、消毒なさってしまったのですね」
 シスターは言った。その声に怒りも悲しみも含まれてはいなかった。
「入っていいですか」
 男は消え入りそうな声で言った。
「もちろんですよ。ここはすべての人に開かれた場所ですから」
 血まみれの男は、音をたてずに建物に入った。シスターは、何も言わずに男を持ち上げると建物の奥へと連れ去った。体を拭いて、包帯を巻くと、男は申し訳なさそうに体を丸めて何も言わなかった。

       ※

 3度目に男が現れたときには、男はもはや、立ってはいなかった。入り口で倒れている血まみれの男を、シスターは黙って持ち上げると建物の奥へと連れ去った。男は尋ねた。
「なぜ私を助けるのですか。父母ですら私が幼いときに私を捨てたのに」
「それは私があなたの願望であり、夢、幻だからです」
 シスターは包帯を巻きながら答えた。
「消毒なら私がしましょう。包帯なら私が巻きましょう。夢とはそういうものです。けっして届かなくとも、あなたを支えてくれるもの。そして、信じ続ければいつかは届くかもしれないもの。だからあなたは現実に帰らねばなりません」
「……残酷だ」
「そうです。残酷なのです。現実とはそういうものです。嘘にすがってでも生き延びなさい。そして今は眠るのです」
「俺の無意識の中に、こんな人がいるなんてな」
「あなたの願望ですから」
 男は泣いた。

      ※

 男の4度目の到来が来る前に、その建物は燃えて消え去った。

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