存在理由。

孤独は、辛いことだろうか。

人によっては、何よりも辛いのかもしれない。
自分は、物理的に一人で暮らしたことはない。
それも、許容されていたからこそ、生きてこれたし、これからも生きていける。

まわりの人に許容され、望まれるなら、存在していても良いだろう
そう思えたら、生きるのは楽になった。
これは今の生きるモチベーションだ。

中1で不登校を「選び」、次の瞬間に死んで詫びるしかないと「思い込み」、それでも、なんとか道を取り戻そうとあの頃はしていた。

いつからか完全に病み、精神はままならなくなり、人並みの人生など送れない、努力は実を結ばないと嫌でも理解させられた。

薬が奏功したのか、20代なかばには安定して、それなりに過ごせるようになった。
今の主人がいたのも大きかろう。
実家にいても、両親に許容されている、と思えたからこそ、安定できた。
10代にはこれを得ることは難しかった。
虐待どころか、とても無条件に愛されて育っていたにも関わらず、だ。

30過ぎて結婚し、実家を出た。
ろくに働くことも出来ず、家事だって上手くこなせない、だが、ただ許容されていたからこそ、そこでも安定して過ごすことが出来た。

恐らく、私は自分自身を許容していないのだろう。

客観的に自己承認出来る要素を何も持たない。
そんな自分でも、許容してくれる人たちがいる。だから、生きていける。

これでも、過去に比べて自己肯定感はある。
自他の境界が曖昧などということもない。
自己否定、ではない気がしている。
嫌い、というほどの強い感情も無い気がする。
自分がどう思おうが、自分はここに居るので、自分に対して関心が薄いのかもしれない。

私は昔、占いに凝ったことがある。
自分ではわからない「本当の自分」がわかるのではないか、という期待である。
まあ、そんなものを生年月日などから見抜いたり読み解いたり出来る術はあるわけなかったのだが。
心理学や精神分析が気になったのも、同様の理由だったのだろう。

私は、自分自身のことがわからず、自分自身のことを知りたいと、ずっと思っていた。

ある時、本当の真理など無い、と悟った。
本当のこたえなんて無いのだ。

私は、恵まれている。
まわりに許容されている。
こんなに幸福なことはないだろう。

それが、失われる恐怖も、実はあまりない。
その時許される在り方で、ただただ孤独に心を閉ざしていれば良い。
それは救いだ。
孤独は、自分自身からの許容だろう。
自分自身に許されて存在出来るなら。
その孤独は安寧だ。

考えたり、感じたりするのは自分自身でしかないのだから、その存在自体に疑問はない。
自分が存在していることを許容するかどうかだ。


ここに居ても良い、生きる意味はそれだけだ。


でもこれは決してネガティブではないのだ。