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僕らは「市民」になれるのか? − 宮下与兵衛『高校生の参加と共同による主権者教育』かもがわ出版、2016

 本書では、我が国におけるシティズンシップ教育の歴史と概要を実践事例を交えながら整理していて、シティズンシップ論の見取り図を得るのに便利だ。

 我が国の従来の教育においては、社会参加に必要な知識、技能、価値観を習得させる教育が不足してきたという。特定の政治イデオロギーが教育に流入することをおそれるあまり、過度の抑制が働いていており、政治や選挙の仕組みは教えても、政治的、社会的テーマについて判断する訓練を施してこなかったという(経産省「常時啓発事業のあり方等研究会」2011)

 じゃあ、そういう反省を踏まえたシティズンシップ教育っていうと、具体的に何をしてきたのだろう。全国民主主義教育研究会『主権者教育のすすめ』(2014)では、模擬投票や模擬裁判、ディベート、憲法学習、地域活動への参加実習などの事例が先進例として紹介されている。なるほど、こういうのがシティズンシップ教育なのかと。

 これらを見てもわかるように、参加民主主義、対話民主主義をとる法治国家の主権者としての資質を養うのが、シティズンシップということになるらしい。そもそもシティズンシップとは「市民性」と訳される言葉で、「市民性」を辞書でひけば「社会の成員として要請される資質」と出て来る。ここでいう「社会」は、「参加民主主義の法治国家」ということになるだろう。まあ、法治国家である日本でシティズンシップ教育をするとなれば、当然そういう資質を要請するだろう、と言う話はわからないではない。

 しかし、ではこのようなシティズンシップ教育、なぜ必要だと言われるのだろう。本書ではこのように説明されている。

 1980年台の「英国病」に苦しんだ、イギリス・サッチャー政権が福祉国家政策を転換、経済の新自由主義化を進めた。新自由主義とは、よく知られるように、政府の財政政策による経済への介入を批判し、市場の自由競争によって経済の効率化と発展を実現しようとする思想である。再配分は最小に限定され、頑張るやつ、成果を出せるやつは報われ、頑張らないやつ、成果を出せない人は、まあ、しょうがないよね、という思想だ。なんとも極端だが、英国病で苦しんだ経験からのぶり返しであろう。

 その結果、負け組とされる若者の間で、ドロップアウトやシニシズムが発生した。シニシズムとは、冷笑主義と訳される言葉で、狭隘な自己利益をただ追求するだけの存在として他者を見る態度を指す、政治コミュニケーション論用語のことだ。このイズムのマインドは「政治家や官僚、勝ち組企業の連中は自分たちの利益のことしか考えていない!」「市場経済社会で勝ち残らなければダメだ。誰も助けてくれない」というような言葉に典型的に象徴される。

 このようにして社会的再配分の根拠の喪失した結果、当然ながら若者は政治への関心を喪失、投票率が急落、そして世代間対立が浮上した。現在の日本を彷彿とされる風景だが、それは単なる印象ではない。アメリカでも1998年報告書「傍観者の国家」で「市民が社会から遊離している」として、人々の関心が政府から離れていることを指摘した。日本でも、バブル崩壊後の1990年台から新自由主義化が進んだが、その結果投票率は20%減退した。

 ちなみに、新自由主義政策と市民の政治参加には相関関係が見られるそうで、軒並み政治参加度合いが低下する新自由主義陣営に対して、福祉国家主義を堅持する北欧ではいまだ投票率は80%を超えるのだそうだ。このような状況で、どうにか人々を社会につなぎとめるため、時の英国政府は、2002年よりシティズンシップを必修化していったそうである。

 さて、日本ではどうだったか。本書の著者は、現在の教育における「自治体験」の欠如を指摘している。自治体験の欠如とは、「自分は他人から要望を聞かれたことはないし、他人は自分が意見を言って変わるものだとも思っていない」という諦念のことだ。まさにシニシズムであろう。日本の若者の多くが学校や地域社会での生活を通じて、意見表明と話し合いを経て、合意に至り、実現するという参加民主主義の体験をしていないし、それどころか、発言すれば、意見を出せば叩かれるという経験ばかり積み重なる。そんなことが続けば、「どうせ変わらない」「意見するだけ損だ」という学習性無力感が醸成されてしまう。つまり、私たちの社会は、シティズンシップを要請する一方で、シティズンシップを排除するわけだ。まさにダブルバインド。実に病ませる。

 ちなみに、学習性無力感に阻害されたとはいえ、「欲望」が消えるっていうわけではない。じゃあその欲望はどこへ行くのだろう。思うに、「事後的クレーム」へと結実するのではなかろうか。宮台真司『君がモテれば、社会は変わる。』は、現在日本を「任せておいてぶーたれる社会」とわかりやすく例えている。代議員、幹事さん、先生、友達…なんでもいいけど、とりあえず他人に任せておいて、あとで文句を言う。まさに「任せておいてぶーたれる」態度に結実する。それは別に若者が馬鹿だからそうなのではない。むしろ逆だ。このダブルバインドな社会で、最低限自分を守れるよう、したたかに適応した結果というべきだろう。そういう構造が「モンスタークレーマー」が出現する土台となるということは想像に難くない。そして、市場社会におけるモンスタークレーマーのもたらすリスクは、消費者に分散的に転嫁される。具体的には商品の価格やサービスの質に転嫁されていく。私たちはそういう形でリスクを負わされているわけだ。

 さて、ここまでで、法治国家における主権者教育は、新自由主義経済の過度な影響に対し、人権や平和などの市民社会的な理念を防衛せんとする思考から出発している事がわかる。しかし、ここでいかに法治国家における主権者教育を施しても、それは栓(福祉国家や、参加型民主主義への期待感)の抜けた風呂に水を足すようなもの、もしくは急ごしらえなバグ対策パッチのようなものではなかろうか、という疑念は当然浮かぶ。

 むしろ、このような構造の中でシティズンシップをなまじ身に着けたとしても、ダブルバインドという支配構造にからめとられてしまいはしないか。「それは、今は過渡期なだけで、いずれシティズンシップ教育が普及すれば、みんなができるようになって、ダブルバインドは解消する」という期待は、たしかにあるだろう。時間の問題といえばそうかもしれない。しかし、現時点では、シティズンシップとは高等教育を受けられた、あるいは高等教育を身につけることのできたお金や高能力といった資源を保有するエリートに限定的な要素と見られてもしょうがないし、それがそういう資源を持たない人々からは、鼻持ちならない態度にしか見えもするだろう。例えば、知らない他人と、対等に、非暴力で、自省的に意見をまとめ、わかりやすく伝え合い、最終的に合意に至るって、言葉にすれば簡単だけど、実際やろうとすると、けっこう高度な能力を必要とするコトであるはずなのだ。そういう能力を持たない人は負ける、排除されるゲームが仮にあるとすれば、そういう能力を持たない人々にとっては、参加型民主主義なんて、自分をいじめ、おいやるクソゲーにしか見えない。参加民主主義というゲームに対する絶望を持つ相手に、対話的態度を強制すること自体が、もはや押し付け、暴力として機能しさえするだろう。

 そもそも参加型民主主義社会は、思考力、知識、感情を抑えて対話する態度といったスキルを、「シティズンシップ」としてメンバーに要請する。それがないと勝てないゲームである。結果「そんなゲームならやってられない」とばかりに離脱が進むなら、エリートと非エリートの分断が起こるだろう。アメリカ始め先進諸国で起きつつ在るポピュリズム的現象、あるいはこないだあったトランプ・ヒラリー戦などをこういう文脈で説明する論者は少なくなかったわけだけど、そういう「意識高い系」と「パリピ・ウェーイ系」との相違に、シティズンシップ教育が関わっているかもしれないと思うと、興味深い。

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