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決して忘れてはならないことがここにあります──矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』

3つの判決があります。

1つめは、砂川裁判で最高裁長官だった田中耕太郞裁判官が出したものです。「日米安保条約のごとき、主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係をもつ高度な政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は(略)裁判所の司法審査権の範囲外にあると介するを相当とする」。ここから主張されたのが〝統治行為論〟です。
2つめは愛媛県の伊方原発訴訟で柏木賢吉裁判長が出したものです。「原子炉の設置は国の高度の政策的判断と密接に関連することから、原子炉の設置許可は周辺住民との関係でも国の裁量行為に属する」。ここから主張されたのが〝裁量行為論〟です。
3つめは嘉手納基地での米軍機の騒音訴訟で「嘉手納基地における米軍機の飛行は、あくまで米軍が管理し、飛行計画を定めているものであり、日本政府は飛行の差止を求める権限を有しない。日本政府に対し、米軍機の差止をするよう請求することは、日本政府に不可能を強いることになり、妥当ではない」。ここから主張されたのが〝第三者行為論〟です。

どれもすぐみてとれることは〝司法〟の判断停止ともいえる事態です。矢部さんは小林節教授の言葉を引いてこう記しています。
「こうした「法理論の行きつく先は、「司法による人権保障の可能性を閉ざす障害とも、また行政権力の絶対化をまねく要因ともなりかねず」、「司法審査権の全面否定にもつながりかねない」」ものなのですと。

なぜこのような行政権力の絶対化を許すようなことが起きているのでしょうか。そこにあるのは日米の極めて特殊な事情・関係です。矢部さんは米国の日本支配関係をアメリカの公文書等にあたりながら明快に日米の、あえて言えば歪んだ関係をあぶり出しています。その中心にあるのが安保条約であり、さらに「在日米軍の法的な特権について定めた日米地位協定」があります。その上で「その日米地位協定にもとづき、在日米軍を具体的にどう運用するかをめぐって、日本の官僚と米軍は六〇年以上にわたって毎月、会議をしている(略)「日米合同委員会」という名の組織」に着目します。
この「日米合同委員会」は「外務省北米局長を代表とする、日本のさまざまな省庁から選ばれたエリート官僚たちと、在日米軍のトップたちが毎月二回会議」を持っている。そこでの取り決めは「原則として公表されないことになっている」のです。「いわゆる「密約」もある」と矢部さんは推測しています。
「しかもこの日米合同委員会メンバー(略)に所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。とくに顕著なのが法務省で省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会のもとメンバーが占める割合は、過去一七人中一二人。そのうち九人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです」

政府も安保法体系に忠実なエリートたちによって支えられているのだと矢部さんは説いています。鳩山さんはこのエリートたちが「反旗をひるがえす」ことによって政権を失ったと分析しています。
安保法体系に従順であれば政権は安泰なのです。さらにいえば安保法体系に背かない限り行政権はどのようにでも独走できるということすら意味しているように思えます。

そして〝統治行為論〟も〝裁量行為論〟も〝第三者行為論〟も、その底にあるのは安保法体系を守るという意思、それも米日の意思なのだと思えます。それは直接的な軍事だけではありません。福島の事故でもそれと同じ構造が見られると矢部さんは指摘しています。
福島集団疎開裁判でこのような判決が出されました。
「福島第一原発付近で生活居住する人びと、とりわけ児童の生命・身体・健康について、ゆゆしい事態の進行が懸念されるところである」としながらも「中長期的には懸念が残るものの、現在ただちに不可逆的な悪影響をおよぼすおそれがあるとまでは証拠上認めがたい」というものでした。これは、嘉手納基地の騒音訴訟で「最高裁は、住民がそうした騒音や振動によって被害を受けているという認定までは」したものの〝第三者行為論〟で住民の訴えを退けた構造とまったく同じものだと矢部さんは指摘しています。

そして起きるのは行政権力の暴走……。福島でも、「原発事故 子ども・被災者支援法」をめぐるある出来事を取り上げています。この「立法の趣旨に基づき、基本方針を作成する前に被災者に対する意見聴取会をかいさいすべきだ」と主張した議員に対して、「復興庁の水野靖久参事官が、「そもそも法律をちゃんと読んでください。政府は必要な措置を講じる。なにが必要かは政府が決める。そう法律に書いてあるでしょう!」と強い口調で言いはなった」そうです。
矢部さんの言うように
「これほどいまの日本の官僚や政府の実態をあらわした言葉はありません。近代社会の基本的仕組みをまったく理解していない。国民はもちろん、その代表として法案を作成した議員さえ、すべて自分たちの判断にしたがうべきだと考えているのです。これこそ「統治行為論」の本質です。これでは国民の人権など、守られるはずもありません」

なぜ私たちはこのよう権力空間の中で生きている(生かされて)いるのでしょうか。沖縄の軍事基地化は避けられなかったのでしょうか……。矢部さんの沖縄基地から始まるこの本は最後にこの問いにむかいます。
敵国条項、占領下、天皇、憲法……それらがどのような意味を担ってきたのか、ここには歴史の謎解きにも似たスリルも感じられます。

暴走する行政権力を許しているているのは誰か、なぜ日本で政治家、官僚の無責任体質が消えないのか、「なぜ自分たちは、そのような『民衆を屈服させるメカニズム』について真正面から議論」しないのか……。
考えなおすことに時期の遅いはない、そして忘れてはならないことは忘れないということにいまさらながら気づかされるものでした。

書誌:
書 名 日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか
著 者 矢部宏治
出版社 集英社インターナショナル
初 版 2014年10月29日
レビュアー近況:野中には過分なパーティーへのお誘いが立て続けに。本当に有難いのですが、パーティーに着て行く服を「買いに行く」服がございません。涙。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.10.13
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4262

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