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科学と技術は離婚するか?

 最初のきっかけは四色問題の証明でした。リンク先のWikipediaより引用すると、「1976年・・・「放電」(discharging)と呼ばれる手続きを改良し、コンピュータを利用して約2000個の(後に1400個あまりに整理された)可約な配置からなる不可避集合を見出し、四色定理を「証明」」とあります。あまりに力づくであり、「これは一応は認められたが、人手による実行が(事実上)不可能なほどの複雑なプログラムの実行によるものであることから、ハードウェアやソフトウェア(コンピュータやそのプログラム)のバグの可能性などの懸念から、その確実さについて疑問視する向きもあった。」

 その後も不可避集合と呼ばれる部分グラフの種類数の削減が行われ、2004年に、汎用の定理証明プログラムCoqを用いてさらにシンプルな手法で証明されています(放電による証明が正しかったことを証明)。しかし、現在でもコンピュータを使用しない証明は得られていません。エレガントの対極にあるエレファントな証明であり、AIと共通の匂いを感じます。Deep Blueがチェス名人カスパロフを破ったときのチョムスキーの言葉「ブルドーザーが重量挙げのチャンピオンより重いバーベルを挙げたことの何がエキサイティングなのですか?」も思い出します。

 中学生時代、1976年に最初の証明のニュースを聞いたとき、当時の識者のコメント同様、論理の切れ味が感じられず、全然数学らしくない、と感じました。また、今後はこのような証明がどんどん増えていくのだろうか?人間の頭脳(だけ)では証明できない真理、定理がこの世には実は沢山あるのだろうか?と感じました。

 最近の将棋や囲碁を解くAIも、上記数学の証明と同様、思考を助けるコンピュータということができます。人間には認識不可能な、巨大な推論空間、補助線が数千万本、数億本という水準の巨大な作業メモリを使って「思考」するイメージは、なんとなく深層学習の仕組みと重なります。30年以上前からの知己、丸山宏さんが、下記を書いています:  

 木を見て森を見ず、ということわざは、統計的把握が苦手な人間の近視眼的な物の理解を戒めたものですが、どうも数学、物理で過去数百年大成功してきた還元主義、シンプルな基本原理の組み合わせで全てを説明しようという試みには限界があるのではないか。こう控えめに問われたら、"Yes"と肯定するしかないでしょう。非線形どころか、超多次元の軸で、対象をありのままにモデル化してしまう。いや、それをモデルと呼んでいいのか、言葉の再定義が必要かもしれませんが、ともかく、数学的帰納法(n個の要素、n番目の時に正しければ、n+1個のとき、n+1番目の時にも正しい、と証明できればnがいくつであっても正しいとする証明法)すらごくごく一部を捉えているだけだ、と感じられるほどに多彩で一般化された極端に複雑な問題を扱うモデルのようなものを深層学習などの仕組みは内部に捉えられるようになってきました。

 それをそのまま、科学と呼んでいいかどうか(間違いなく工学の成果ではありますが)。やはり、「科学」の再定義が必要となるでしょう。ドイツ語のように、科学=Wissenschaftが、「知る」ことの体系、知の体系という語源による場合、人間が理解できない結果を「科学」と呼ぶには、より大きな抵抗がありそうです。https://kotobank.jp/word/Wissenschaft-1258739

 そもそも、科学(理学)と技術(工学)は違うものです。科学は真理の探究を目指し、何らかの現象(人工物や人為によるものを含め)が「なぜ」起きるのか、「なぜ」そうなるのか?を追求し、説明を求めます。説明理論がなければ科学ではない、と私は信じてきました。逆に、工学は、何か作って動けばいい、役に立てばいいので説明は必須ではありません。もちろん、安全安心や、効率よく、高性能、高精度、高品質なものをむらなく作る目的、トラブルの原因を解明する目的で、【手段として】説明を求めることはあります。しかし、必須ではないので、現在でも、なぜ飛行機があのように飛べているのか完全には解明されていないといいます。逆に、いくら理論があっても、モノが作れなければ工学としては失格です。

 とはいえ、物理学の理論が高集積度の半導体の製造に不可欠であるように、科学は長年、技術にとって決定的に役立ってきました。とはいえ、科学が対象とする自然物、生物の模倣は、技術にとって、必須ではありません。「弱いAI(→拙著をどうぞ!)」は人間、生物が絶対のお手本ではないことから、今日のAIは科学でなく技術である、といっていいかもしれません。飛行機=飛ぶ機械を作ろうとしてきた技術史を紐解くと、ダ・ヴィンチ以前の時代、鳥の仕組みをひたすら解明し、鳥に似た形の機械を作ろうとして失敗を繰り返していました。      

 それが、ライト兄弟(高名な科学者ではありませんでした!)の頃には、機体の重さと揚力のバランス、揚力を得るための水平速度と翼の大きさと形状、エンジンの馬力がカギであり、これ以外の鳥の特徴は捨象すべき、とわかっていたのでしょう。あとは理論、説明よりも、試行錯誤。そう、今日、必要性が叫ばれているデバッグ主義の先駆けだったともいえそうです。ですので、結果として、水辺のペリカンは頭にプロペラ付けたりお尻にジェットエンジン付けて飛んでいるわけではないし、翼を激しく羽ばたかせて飛ぶ飛行機は見当たりません。

 つい先日公開された、下記記事の題名を、本ノートは借用しています:

宗教、哲学から自然科学がスピンオフしたことを先日書きましたが、上記記事では、それが比較的最近のことだとしています:

"現在我々が「科学」と呼ぶものが成立したのは歴史的にはごく最近、三百年ほど前のことである。それ以前にも自然法則を考える学問はあったが、それはいわゆる自然哲学であった。"

 筆者は、科学に基づく技術をテクノロジー=「科学技術」と定義して、それがそれ以前の「技術」が「善、美」をも備える「アート」と離婚して生まれた、と主張します:

 "技術はどちらかというと工芸や建築の意味でのアートと近い時代が歴史的には長かったが、一心同体であったアートと技術の仲は近代以降急速に疎遠になった。そのかわりに技術は、「真、善、美」のうち「真」だけが独立し、経験論的アプローチだけが肥大化した科学と結婚した。"

 この「結婚」の動機は何だったか? 答えは社会の進歩と富、利潤の追求です:  "科学と産業革命の時代である近現代という時代の根本がここにある。つまり、自然法則の形式的な理解が巨大な利潤と効用に結びつくという人類史的な大発見である。"

 以下、丸山さんの高次元科学の指摘とは違う視点で、AIが自ら科学する可能性を論じています。iPS細胞を培養するロボットや、高度な統計処理から法則を再発見するAI、そして、凄まじい速度で系外惑星を発見しその大気組成や公転周期、潮汐ロックの有無を突き止めてしまうコンピュータプログラム(後2者は出典にはありません)。これらはまだ、科学的業績を得る全体プロセスのごく一部を担うにすぎませんが、それがつながり、統合され、何か動機付け1つ与えただけで科学的新発見がもたらされるなら、AIが科学研究を担ったことになるのではないか。AIが知識を作り出したといえるのではないか。

 AIが得意な超多次元空間の扱いが含まれてくれば、人間が理解できない成果も出てくる。ここは、丸山さんとほぼ同じ主張だと思われます。(引用元の「「AIの科学」の誕生」節より) 続く最終節、「科学と技術の離別、アートとの再会」では、こんな考察が提示されます。

"研究開発にまで自動化の波が押し寄せた将来には、人々の意識の中からテクノロジーは薄れ希薄化、透明化する。どんな価値が生まれるかは「何を望むか(what)」の時点で決まり、「どうやってそれを為すか(how)」の意味は相対的に薄くなってゆく。そのような時代では「技術」は限りなく本来の未分化で多義的な意味での「アート」に近づいてゆく。"

 「人工知能が変える仕事の未来」では、マーケティングがどう変わるかのイメージとして、「人間が作るキャッチコピーは、100万Page Viewとるためのもので、AIが作る(作成コストがゼロに近い)キャッチコピーは、1 Page Viewだが100万人のために100万本、一晩で作ってしまうもの」という内容を書きました。研究開発コストがゼロに近づくのなら、確かに、どう作るかのテクノロジーの存在は意識されなくなるのかもしれません。

 ただ、これも定義の問題で、旧来の説明理論としての科学を無視した、その帰結に反する(重力の法則を破るとか光速を超えるとか)技術が多数出てくるというのではもちろんありません。新たな欲求を叶える物づくりのために、高次元科学、人間には理解不能の入出力対応関係が活用され、説明理論が本質的役割を果たさなくなり、重要な地位から滑り落ちるということなら有り得ると思います。この意味で、本当に科学と技術とを離婚させかねないAIの役割は重大なものだ、といえそうです。

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メタデータ(株)の野村です。人工知能研究40年、WordNet活用研究への貢献から、言語学の深みを活かした自然言語処理応用で知識処理、文書分析、対話、要約を高度化へと研究開発を展開。産業、社会、行政、教育(特に芸術、人文科学)の様々な問題について、なぜ?と自問自答し続けています。
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