リアル 2
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僕にとって音楽を追求することは、自分の立ち位置を(それは居心地の良い場所とも言えるのかもしれない)を探すことに似ていた。
バンド・マジックやケミストリーと言われるような、集団によっての化学反応というものに僕はどこか馴染めなかった。
本来「はみ出しもの」の集まりであるロックバンドの中にさえ、僕はどこか居場所を見つけられずにいた。
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歌を始めたのは30歳を過ぎてからだ。
全てにおいて自分自身で舵をとり自分自身で決断していく、そんな活動をしてみようと思った。
それでも一人での活動を始めることにためらいはあった。
そのためらいの理由は「歌が歌えない」ということだった。
だから僕は「歌えるようになろう」とした。
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何処へ行っても、自分の立ち位置の「あやふやさ」を感じていた。
英語詞で歌ってはいるものの英語が堪能なわけでもなく、歌唱力や演奏力にもこれといって特筆すべきものはない。
自分の「メロディー」というものに自信を持ってはいたが、メロディーの良し悪しというのはおそらくは自分以外の誰かが決めるものなのだろうと思っていた。
まだほぼ誰にも聴かれていないそのメロディーは、「存在していない」ことと同義だった。
それが「中途半端」という言葉と同義語であるような気がして、そしてだからこそ今ももがいている。
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はじめてアルバムを制作した。2019年の2月のおわりから制作を始めて、5月にyoutubeで発表した。全部で10曲だった。
自分の生きた証を作品として残してみたかった。
だから僕はそのアルバムに「the worth of exicetence(存在価値)」という名前を付けた。
それはとても孤独な作業だったが、それ以上の充実感に包まれていた。
「ひとり」を選んだことは良かったのだ、たぶん。
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youtubeで録音した全10曲を公開した後は、可能な限りライブを行っていた。
首の痛みに悩まされ続け、苦肉の策で曲の「オケ」と「歌」のみでライブ活動を続けていた。
オーディエンスは、どのライブにもほとんどいなかった。
特に地元である岡山県倉敷市から離れれば離れるほどそれは顕著だった。
「誰にも知られていない」とはこういうことだと、思い知らされた。
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取りまく環境は決して良いものではなかったし、自他ともに認める「無名」のミュージシャンだったが、たったひとりだけ最高のファンがいた。
他ならぬ僕自身だ。
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「記録の存在しない街、トーキョー」に送り込まれた一人の男。仕事のなかった彼は、この街で「記録」をつけはじめる。そして彼によって記された「記…
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