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終わりと捉えるか、始まりと捉えるか

この世界はひとの選択でできている。たとえばいまデスクのうえに、ゼンハイザーのヘッドフォン、無印良品のマグカップ、東京国立博物館で買った浮世絵柄のマウスパッドがある。どれも僕がお金を払い、このデスクに置かれることになった。つまり僕は選択した。僕のデスクのうえは僕の選択でできている。

僕らが社会にでると、そこでも選択が行われる。あなたを採用したひとは、あなたを選択した。ほかのひとは落とし、あなたに決めた。そしてその面接官も、「君は新卒採用の面接をしてもらいます」とうえから選択された。このようにすべてを細かく見てゆくと、すべての意思決定が選択でできている。富める者も、貧する者も、選択の積み重ねでできあがる。

選択を起こす(起こすで正しいとおもう)には、僕らは行動をする必要がある。部屋の外からでていって、近くの林檎の木を蹴る。これは林檎の木を蹴って、甘く熟れた林檎を得ようとすることだ。しかしときに林檎の木の持ち主がそれをみていて、木製バットを持って走って追いかけてくるかもしれない。

このように、ひとが選択を起こすと、外的環境になんらかの変化がある。人間たちが動き、木が揺れ、林檎が落ちる。つまり選択とは行動であり、行動とは選択である。

世の中には、これですべてが台無しだ、とおもえるような出来事がときに起きる。受験にすべてを賭けていたひとが落ちれば、それは世界の終わりのように見えるだろう。ヨットレースにすべてをかけていたひと、陸上にすべてをかけていたひと、司法試験にすべてをかけていたひと。彼らが選択を起こして、それが粉みじんに砕けたとき、ひとはそれを2パターンに捉えることができる。

終わりと捉えるか、始まりと捉えるか

結論から言うと、始まりとしてすべては捉えることが可能だ。致命的な失敗、強いおもいの爆散、期待の崩壊。こうした方向で物事をとらえると、それは人生を減速させてしまう。終わりと捉えると、いまに対するコミットメントが減衰し、結果新たな失敗を生む。

「終わりだ」そう考えるひとは実際にそうなるし、失敗つづきで自信を喪失してしまう。

しかし反対に、これが始まりなんだ、と捉えることも可能だ。例えば美しい女性に「好意を持っているのだが」と言ったとき、「もう結婚が決まっているので」と言われたとしよう。これは終わりだろうか? 始まりだろうか?

たいていのひとが終わりだと考えるだろう。しかし僕の考えは違う。これは始まりだ。相手からもう結婚が決まっている、そういう事実を引き出したのは、とてもポジティブなことだ。実際に彼女はそのまま結婚してしまうかもしれない。この恋愛はどうにもならないかも。しかし極端なことを言うと、ここから始めようと、考えることもできる。もう結婚が決まっているのは知っている。さて、どうするか? ここから、そう自分に問いかけることができる。

すべては、ひとの思い込みでできている。何かを選択し、何かをあきらめる。何かを捨て、何かを残す。この不確定変数が多いこの街のなかで、いちいち起こることを「終わり」としてとらえていると、一年はすぐに終わってしまう。恋愛に限らず、テストの失敗、選考の落選、選ばれない体験のすべて。それらにいちいちネガティブな反応をしていて、いったい今日何が得られるのだろう?

殆どすべてが、始まりである。致命的に見えることも、ちっとも致命的ではない。この世界で起こることのすべてで、致命的なことなんてありはしないのだ。

これは始まりなんだ。ここから始まるんだ。そして積み上げていき、毎朝元気に世界で林檎の木をゆする。愛することをやめないこと。いまこの瞬間を愛すること。100分の1秒を愛すること。そうすれば、世界はたくさんの林檎を落としてくれるはずだ。

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鼻歌をついつい歌ってしまいます

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音楽系ライター。会社員。音楽やアーティストについて書いたり、どうでもいいことを書いたりします。「#いまから推しのアーティスト語らせて」投稿コンテスト、準グランプリ。🎖️

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