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寒波下のホテル生活

 1月24日の早朝。トイレのフラッシュボタンを押して流したが、なぜかタンク上部の蛇口から水が出ない。ふと、故障か? → 不動産会社に連絡 → 修理業者(日程調整) → 時間かかる → 面倒くさい、という図式が頭をよぎる。仕方なく隣接する洗面台に向かったが、こちらも蛇口がうんともすんとも言わない。キッチンでもあがいてみて、初めて水道が使えなくなったことに気づく。電気、ガスは使える。賃貸住宅に住んでほぼ35年余だが、こんなことは初めてだった。夜間対応窓口に電話をかけるが15分以上も待たされる。
 電話口で状況を説明すると「お住まいの地域から同じような問い合わせを多数受けてますので、おそらく水道管の凍結かと。昼過ぎまでお待ちいただくほか手立てはありません」 は? とうけつ? 慌ててカーテンを開けると、目の前に広がるその光景は、かの有名な小説の書き出しを思い起こさせた。
 コロナ禍でTVを見なくなったせいで、世事に疎くなったのは事実だ。ネットニュースのタイトルで寒波襲来は知っていたが、まさかここまでとは。この地方には珍しい大雪で、眼下の道を行く数台の車もそろそろと用心深げだ。
 身支度ができないのでリモートワークに切り替えたが、冷え込みが懸念される場合は、水道から水を少し流しておけば凍結を防げるのだとか。もったいないと思うなら浴槽などに貯めておけば洗濯にも使えるらしい。知らなかった。そうか、若い時に行ったスキー場などの手洗い場で「凍結防止のため、水を流したままにしています」という貼り紙を見たことを思い出す。
 9時には水道が復旧したが、気になって今夜の天気をググるとマイナス2度。今夜は絶対に水を流し続けよう。水道の復旧で安堵したのもつかの間、この賃貸にはエレベーターがなかったことを思い出し、慌てて玄関を開ける。案の定、この最上階(4階)の廊下から1階まで続く階段にもびっしりと積雪が。今は積もったばかりでまだ柔らかいだろうが、明日の朝、凍てつくことは容易に想像できた。
 十数年前になるが、凍った階段を滑り落ちて、左手の小指を脱臼、複雑骨折したことがある。完全には回復せず、今も少し曲がったままでブラインドタッチの精度も落ちた。それがトラウマとなり、凍てついた階段を下りることにとてつもない恐怖を覚えてしまう。
 もしかしたら、明日の朝には雪も凍りもなくなるかも。そう淡い期待を抱くが、昼過ぎからまた雪が舞い始める。夕方に向かうにつれ、空はどんどん暗く、雪はぼたん状になり、もはや不安しか募ってこない。しかも、明日は絶対に職場に行かなければならない予定が入っていた。
 楽しくてフォローしている下記シリーズを思い出し「そうだ、今夜はホテルに泊まろう」と思いつく。

 自宅から職場までは歩いて15分、ビジネスホテルが林立する駅周辺まで自宅から徒歩で7分。こんな狭い範囲でホテルに泊まるなど、平時ならもったいないだけだ。でも、リスク回避と同時に「ホテル宿泊」を楽しめれば、自分の中では許容範囲だった。
 SDGsを意識する中でやめたエアコン生活もあり、せっかく冷える部屋から逃げ出すならと、温泉のあるビジネスホテルを選んだ。最小限の荷物にとどめ、雪が凍る前に階段を降り、ホテルにチェックインする。そのあと、晩酌用のお酒と夕食を調達しに隣のコンビニに向かった。このところ、筋トレで一食あたりのタンパク質とカルシウムの摂取量を決めていたので、加熱の必要のない食料の栄養素を確認しながらカゴに入れていく。今年の目標に人生初の倹約を掲げてからコンビニを避けていたので、一つ一つの値段にいちいち驚いてしまう。
 部屋に戻るとあまりに暑くて、エアコンの設定温度を確認すると25度。高すぎる。急いで18度に下げて、温泉に向かう。
 温泉は小さかったが、女性客は少なく、身体を思いっきり伸ばして温まるには十分だった。アルコールを入れてからは入浴時間を短めにしたが、その夜は何度もリピートした。半屋外の湯船もあり、そこから眺める景色はまだ雪が降り続いている。温泉で温まる身体と、明日の朝、凍った階段を降りなくて済むという安堵感に、どれだけほっとさせられたことか。部屋に戻るとまだ暑くて、結局エアコンを消して就寝した。エアコン無し生活も板についたということだろう。
 翌朝は、7時半には出勤しなければならなかったが、幸い、朝食は6時半から提供が始まるという。その前に温泉を楽しみ、ビジネスホテルゆえにあまり期待せずに向かったレストランだったが、案内された先のビュッフェの品数や種類は想像を超えていた。タンパク質とカルシウム、糖質やビタミンなどを考えながら、和食の小鉢をトレーに敷き詰めていく。主食にはひつまぶしを選び、お味噌汁の鍋にわかめ、とうふ、油揚げがたっぷり入っているのを確認して、心置きなく具と刻みネギを多めに椀に入れた。ヨーグルト、皮付きのりんごまで全てを美味しくいただき、温かい温泉に感謝してチェックアウトした。
 今度また寒波に襲われたら、絶対にこのホテルにリピートしようと誓った。しかしこの料金でこの満足感。ビジネスホテルの今昔物語でも書けそうな気がしてきた。

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