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キミは天巻を食べたことがあるか

 もう15年以上も前になるだろうか。この地で新体操の世界大会が行われたことがあった。その撮影のために来県した東京在住の女性カメラマンをアテンドした際、駅から少し離れているが、地元で人気の居酒屋でその日の労をねぎらうことになった。キンキンに冷えた麦酒で乾杯し、近海の幸を中心に肴を選ぶ。

 当時はまだ30代後半で今ほど食にこだわりはなく、相手が喜んでくれたり、過ごした時間が楽しかったりすれば十分に満足出来た。そろそろ〆に入ろうかとメニューを見せながら尋ねる。「おにぎりにしますか、お茶漬け派ですか? それとも天巻にしますか?」

 一瞬の沈黙があり、「天巻? 何、それ? 聞いたことがないんだけど」。最初はふざけているのかと思ったが、彼女の表情はいたって真剣そのものだ。私より一回りは年上だと聞いていたので、50年近く生きて天巻を知らない人生など考えられなかった。お酒をあまり飲まないから、居酒屋にいく機会がほとんどなかったとか? いやいや、先ほどの飲みっぷりから、それはないだろう。

 「で、天巻って何? 名古屋の天むすとは違うの?」 一応、説明を試みてみる。「海老の天ぷらを白い普通のご飯で海苔巻きにしたもので、うっすら塩味で美味しいんです」。「へー、いいじゃん、それ頼もうよ!」 「じゃあ、店長、天巻を一つお願いします!」 「あいよ!」 「どんなのが来るんだろう。めっちゃワクワクする!」と彼女は笑顔をほころばせる。

 「おまちどおー!」 ほどなくしてテーブルにサーブされたホカホカのそれに彼女は興味津々だ。「お先にどうぞ」と促すと、「さんきゅー!」と箸を伸ばし、一切れにかぶりつくものの、天ぷらが熱いのかすぐにコメントが出ない。でも、大きくうなずきながら左手でOKのサインを見せてくれたので、気に入ってくれたのだと嬉しくなった。

 あっという間に天巻一本を二人で頬張り尽くすと、「いやー、美味しかった! まじで東京で見たことないんだよね。この地域にしかないのかな?」と聞かれたが、「うーん、考えたこともなかったです。ないところもありますが、この辺りでは、大抵の居酒屋や飲み屋には天巻はあるので。もしかしたら関西圏の文化なのかもしれないですね」。ほとんどない知識で、しれっとはぐらかす。彼女は翌日も同じ居酒屋に一人で出かけ、天巻を食べたと教えてくれた。「だって、東京に戻ったら食べられないからね」。

 その時はそれで終わったが、これまた10年ほど前に東京からのビジネス関係者をアテンドする機会があり、懇親会の終盤に、何故か突然、その時の天巻のことを思い出した。果たしてデジャヴュとなるか。念の為、店のスタッフに天巻があるかを確認し、参加者全員に聞いてみる。「天巻、食べたことがありますか?」

 その時は、北海道や沖縄からの関係者もいて、皆が皆、ぽかんという表情を見せる。「天むすなら知ってる」。違います、天巻です。そして、あの日の彼女と同じように、サーブされた天巻にかぶりつく光景が繰り返される。ああ、天巻がないのは東京だけじゃなかったんだ。この時から、私の推測は確信に変わったように思う。来県者との懇親目的で使う店に天巻があれば、お披露目された天巻がその日のトリを飾った。

 ただ不思議なのは、この10年、私が天巻を紹介した人たちは、この地に来るとメニューにある店なら必ずリピートしてしまう天巻なのに、なぜかそれが他県の居酒屋等でコピーされないことだ。ググると、回転寿司チェーンの中に「エビ天巻」や「エビ天寿司」、「エビ天ロール」なるメニューもあるようだ。しかし、「イカ天」系の兄弟がいたり、せいぜい二貫程度だったり、おそらくは寿司飯バージョンしかなかったりで、冒頭の写真のような、この地方における天巻の圧倒的な存在感ほどには確立されていないようだ。

 ちなみに、この地域における天巻の知名度は、成年ではほぼ100%だと思う。飲食店に入り、「天巻、ありますか?」と尋ねて、「それ、なんですか?」と返す店主もいないだろう。返ってくるのは「ご用意出来ます」か「うちではやってないんです」の二択だ。そしてわざわざ「海老」をつけなくても、天巻の天ぷらは海老と相場が決まっている。

 実は、県内で食べられる天巻はほぼ3種類に分かれる。白飯、大葉、海老の天ぷらを海苔巻きにしたもの、白飯をゆかりご飯に変えたもの、そして、寿司屋で出される白飯を寿司飯に変えた天巻だ。いずれもお醤油の小皿がついてくるが、個人的には天巻本体の薄塩のままが最も美味しくて、醤油をつけるなんて勿体ないと思っている。

 そして最も大事な食味だが、残念だが店により、好みに合うかどうかは大きく異なる。天巻ののぼりが出ているような店はまず間違いないと思っていい。定番メニューに載っている店も大丈夫だろう。「たまたま出せる天巻」と「こだわりの天巻」では、海老の量と食材のバランスなど全体の完成度が大きく異なるからだ。

 もしキミが初めて天巻にトライするなら、ぜひこだわりのものを出す店を探してみてほしい。いや、この地方を代表して、キミのために美味しい店をリストアップしてもいい。だからその時は忘れずに、この私に連絡をくれ給え。

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