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もやもや

 今日も、彼は夕食を食べるとすぐに眠ってしまった。余ったお米を取り分けて、洗い物を済ませた。彼はそれらを「少し寝てからやる」と言い残して横になったけれど、すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてており、一向に起きる気配はない。これは朝までぐっすりコースだな、と諦めて読みかけの本を開いてみるけれど、なかなか頭に入ってこない。一人の夜を素敵に過ごしてやろうと意気込んで、試行錯誤してみるがなんだか心が満たされない。何かもやもやしたものが心につっかえていて、それが心に栓をしているようだ。彼は大事な発表を明日に控えていて、ここ数日は休みの日も資料の準備や発表練習に勤しんでいた。そんな中でも、私との時間を大切にしようとしてくれていて、それなのになにか物足りないと思ってしまう私には、なにか大切なものが欠けているのだろうか。頭で理屈を考えたところで、自己中心的な感情は大人しく言うことを聞くはずもなく、なんとなく、私は不機嫌だ。


 そんなことはおくびにも出さず、我を殺して笑顔で応援できるのが俗に言う良いオンナなのだろう、と頭では思う。確かに、相手の都合に合わせるために自分の感情を押し殺すことは、相手を尊重したいと思う気持ちと、愛がなければ成し得ない業かもしれない。ただ、そこに本当に愛があるのなら、きっと感情を押し殺す必要もないのではないかと思う。「あなたは今大変な時期で、私もそれを応援したいと思っている。今日がどんなに忙しくても、帰って来てからの時間はゆっくり過ごせるものであって欲しいし、明日も元気に頑張ろうと思えるひとときでありたい。あなたも私との時間を大切にしてくれているのは感じているのに、どこか満たされない。あなたが眠ってからの時間、ひとりで食事を片付けてぼんやりしていたら、なんだか寂しくなってしまった。」ここまで伝えて、あのもやもやが「寂しい」だったことが分かる。思ったことを可能な限りそのまま伝える。寂しいと言われたところで、あなたはごめんねと謝った後、私を抱きしめてそのうちまた眠ってしまうのだろうけれど、それでいいと私は思う。あなたを責めるつもりはないし、じゃあどうすればいいんだよと怒られたって、私も困ってしまうから。


大切なのは、心につっかえたもやもやに、名前を付けて表出するプロセスである。だからどうして欲しい、は必要ない。これは問題提起でも、解決策を求める訴えでもない。


気持ちを伝える、伝えられた気持ちを受け取るという行為は、それ自体に価値があると思う。交際したい相手に好きな気持ちを伝えるという行為には、交際という目的に向かう意識が付加されていることが多々あるが、私はそれをあまり好ましく思わない。私があなたを好きでいることは、あなたも私のことが好きで、交際が成立しなければあってはいけないことなのだろうか。「その服かわいいね」「笑った顔が素敵だね」という言葉の裏に、「付き合いたい」という目的意識を隠し持った日本人は、外国よりも多いのではないかと思う。本来嬉しいはずのそれらの言葉に嫌悪を感じる人が一定数いて、本当の「かわいい」「素敵だ」という気持ちが伝えづらくなくなってしまっている現状が、その証明である。恋愛を例に挙げてこれ以上話を進めると内容が複雑になってしまいそうなのでこのくらいにしておくが、気持ちを伝えるという行為に、無言の目的意識を付加するのは辞めるべきである。「すき」と「付き合いたい」は似て非なるものであり、決して混同してはいけない。

「寂しい」という感情は、相手を責めたり、どうにかして欲しいと訴える気持ちではないはずなのに、しばしば表出されずに人の心を蝕んでゆく。「寂しい」のまま表出されることを拒まれると、もやもやした気持ちは相手に対する「不満」や「怒り」といった黒い感情に形を変えていく。もやもやを我慢したまま一緒にいると、少しずつ、着実にお互いに黒い感情が増えていく。もやもやを我慢しているのは相手の"為"のはずなのに、いつの間にか相手の"所為"だと思うようになってしまう。頭では"仕方ない"と中立を装っていても、心は相手を"嫌だ"と言って攻撃対象にするのだ。そんな黒い感情すらも我慢し続けた忍耐強い人の心はどうなるかというと、いつまでも心にもやもやの栓がされたまま、息が詰まって具合が悪くなる。そんな状況に陥っても、自分の首を絞めている「栓」が何かすら分からず、取り除く術も知らずに苦しみ続けるのである。最早それは忍耐強さではなく、自分の感情と向き合うことを怠った自身に対する不誠実さであると言えよう。

朝、起きだした彼が私を起こして、なにやらごめんねとありがとうを言っている。まだ眠い私はろくに話も聞かないで、もう少し眠ってやることにした。しばらくすると布団から出て、お湯を沸かして豆を挽く。水筒に珈琲を入れて持たせて、ベランダから彼を見送る。寂しかったもやもやは、どこにいったのだろう。

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