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ヤングシナリオ大賞の話

2010年12月29日に放送されたヤングシナリオ大賞の受賞作『さよならロビンソンクルーソー』が、CSで放送されます。十年以上前の作品なので正直こっぱずかしいのですが、これまで再放送されておらずソフト化もされていないので、珍しい機会です。主演の田中圭氏が素晴らしいお芝居をしています。対する菊地凛子さんも自然なお芝居が素敵で、このときの印象もあって『獣になれない私たち』の呉羽役をお願いしました。本作には綾野剛氏もちょっぴり出てきます。つい先日、オンエアぶりに見直したのですが、圭氏も綾野くんも若い!凛子さんはほとんど変わらず、蓮佛美沙子さんは恐ろしいほど変わっていなかった。どうなってんだ。他にも大賞作が7本、放送されるようです。

ヤンシナは毎年、大賞作品が映像化されるのですが、監督は必ずフジテレビの新人ディレクターで、演出・脚本ともに新人同士で世に出ることになります。(世に出ると言っても、その後の仕事が約束されているわけではなく、私も放送後一年、辛酸を嘗め続けました。はは。)そのため、局のプロデューサーが指導的立場で入ります。私の場合は、受賞シナリオが規定の65枚びっしりだったため放送枠に収まらず、撮影用台本にするにあたり、あれこれ削ったり変更したりしました。勝手に直されるわけではなくプロデューサーの指導を受けて、自分で修正していく形ですが、オリジナルの方にも思い入れがあるので興味がある方は元の受賞シナリオも読んでみてください。月刊ドラマのバックナンバーがまだあるようです。審査員評なども載っています。

シナリオの中で、主人公の慶介が自分自身の匂いを確かめる描写が何度か出てきます。これはゴミ焼却センターに取材に行ったとき、係の方に訊いた話を元にしたものでした。月に何回かある公開見学日に足を運んだのですが、見学者が私しかおらず、根掘り葉掘りの質問に親切に答えてくださいました。あのときの若いお兄さん、ありがとうございます。覚えてないと思うけれど。

以下のグレー地部分、内容の演出に触れているので、先入観なしに放送をご覧になりたい方は読み飛ばしてください。

放送版ではクライマックスのとあるセリフが、編集でとんでもなくわかりやすくなっています。シナリオでは一行書いてあるだけだったので、「そんなに強調しなくても!」と思わず笑ってしまいました。あとですね、エンディング曲がなぜかハングルです。物語に関係なく唐突に流れ出すので少々びっくりすると思います。これから日本で売り出そうとしていた韓国のグループだったらしいのですが、当時ディレクターと二人で「なぜ……?」と首をひねりました。あの頃は第二次韓流ブームが来ており(第一次はヨン様)、プロデューサーとしては流行りものという意識で決めたのだろうと推察されますが、今となってはよくわかりません(笑)

せっかくなので、ヤンシナについて書き記しておきます。以下、ちょっと長いので暇なときにでも眺めてください。

ヤンシナ徒然

ヤンシナ=ヤングシナリオ大賞とはフジテレビ主催のシナリオコンクールで、脚本家への登竜門となる賞だ。

第一回の大賞受賞者が坂元裕二さん、第二回が野島伸司さんという、フジテレビのドラマ黄金時代を作ったお二人。私はその20年後となる第22回で大賞をいただいた。

ヤングシナリオ大賞(以下ヤンシナとする)の募集要項には『プロの脚本家を目指す方』『自称35歳まで』とある。自称なので何歳でもいいのだが(実際、還暦を過ぎた方が佳作を受賞した年があったような)フジテレビのプロデューサーが若いことを考えると、自然とそれくらいが目安になるのだろう。私は20代後半から6年ほどヤンシナに挑戦していたのだが、「35歳を過ぎても最終に残れなければシナリオスクールに行こう」と思っていた。それまでは三次が一度、あとは一次・二次止まり。最終に残りさえすれば、プロデューサーの目に止まりデビューするチャンスがあると考えていたので、運良く佳作が貰えれば儲けものくらいで考えていたが、35歳の年に初めて最終選考に残り、それが大賞の受賞となった。

その頃は某予備校で派遣社員として働いており、昼休みにキングジムのポメラで執筆していた。当時は今ほど軽量で立ち上がりの早いノートPCがなかったので、開いて三秒後には書き始められるポメラの手軽さは唯一無二だった。毎日一時間、弁当を食べながら執筆していれば、いやでも書き終わる。実はそれまでの年は締切間際に執筆することが多く、プロでもあるまいしそんな書き方でなんとかなるわけもなかったなあと今では思う。最後の年は、早い時期から地道に書いていた。それと、描きたいものがあったというのが大きかった。そのあたりのことはジェーン・スーさんとの対談でも話していて、スーさんが『結果、より強く弓を引けたのだろう。』と表現していたのが、なるほど言い得て妙。

早めに書いていたとはいえ、内容の推敲や誤字脱字やプリンターのトラブルなどに時間を取られ、応募原稿は〆切当日の24時ぎりぎりに郵便局の夜間窓口に持っていった。もう5回めのことだったので応募のベテランと化していたが、年に一度のチャンスのためオリンピック選手の四分の一程度には緊張感がある。

応募から数ヶ月後に、第一次選考の結果が公式サイトと月刊ドラマに掲載される。一次は大抵通っていたので、運悪く変な下読みに当たらない限り、通過できるだろうと考えていた。(後にフジの人たちから聞いて驚いたのだが、実は一次審査の段階からプロデューサーやディレクターなど局員自らが、必死で応募原稿を読んでいたらしい。毎年大変だとぼやいていた。ネットで流れていた「素人に毛が生えた下読みに落とされる」云々というのは、新人小説の世界ではありえるのかもしれないが、ヤンシナに関しては単なる噂に過ぎなかった。毎年一次で落ちている人は下読みや運のせいにせず、基礎から見直したほうがいいと思われる。そうした噂も含め、当時は「未着が不安だから簡易書留にしたいがアリなのか」「ダブルクリップはアリかナシか」など、どうでもいいようなことで右往左往することも多かった。今は情報も多く、ネット応募になって印刷や郵便の手間もなくなったようで、少しうらやましい。余談でした。)

一次二次を通過し、三次になるとぐっと本数が減る。問題はそのあとで、これまた数ヶ月後に受賞者が発表されるのだが、その頃にはすでに大賞作の撮影準備が始まっていたりするので、三次発表のあとフジテレビからの直接の連絡がなければ、落選ということになる。その連絡がいつくるのか皆目わからないので、PHSに未登録番号からの着信履歴が残っていたときも、大して気に留めなかった。迷惑電話だと嫌なので、念のため着信履歴の番号をネットで検索したとき、息を呑んだ。その番号の枝番に『フジテレビ』があったからだ。

は?フ、ジ、テレビ、……?

とはいえ留守電が入っていたわけでもなく、ただの着信である。なにかの間違いかもしれない。もしも最終選考の件なら、また連絡があるはず……と思ったまま、一日たち、二日たち、三日。果てしなく長い三日間。

電話を!もう一度!してちょうだい!!!次こそ秒でとるから!これ以上!悶々とさせないでオネガイ頼む!!!

それでも電話は鳴らないのである。結局どうしたかというと、こちらから電話をした。友達じゃあるまいし「ねえねえ電話した?」と気軽にかけられる仲ではないが、35歳ともなれば図々しいことができてしまう。間違いだったらあきらめも付く。着信履歴の番号に電話をしたらやはりフジテレビのドラマ部だった。とりあえず名乗って、「どなたかはわかりませんが御社から数日前に電話をいただき、もしかしたら、ヤングシナリオ大賞に関することかなと、折り返しの電話をしてみた次第でして……(頼まれてないけどね)……」と申し出たところ、担当の女性に変わってくれた。「はい、電話しましたー!よくフジテレビってわかりましたね!」と妙に感心されつつ、最終に残ったことを告げられた。ついては面接があるということで10月はじめ、お台場のフジテレビへと行った。

面接……面接といえば、東映の芸術職研修者の脚本採用に応募した際、最終まで残ったことがあった(いつだったか調べたら、2005年だった)。最終面接には社長と役員の方々がずらりと並んでいたので、今回もそうした面接かと思いきや、部屋に居たのは三人のプロデューサーだけだった。話のメインは「自身のオリジナルか」「複数ではなく一人で書いたか」というお決まりらしい確認。あとは本名かどうかと簡単な経歴、プロになる気が本当にあるか……といったヒアリングで大したことは聞かれなかった。そのとき、もし受賞してもすぐにプロになれるわけでも食べていけるわけでもないので、実家住まいや主婦の方が有利だと言われた。実家でもなく結婚もしておらず貯金もゼロの私にはどうしようもなく、ここまで来たら頑張るしかないので「あー、そうですよねえ。まあ、頑張ります」と平凡かつ面白みのない返事をした。最終結果は数日後、電話連絡になるとのこと。

その日は確か冬期講習のパンフレット作成の追い込みで、残業をしていた。節電のため真っ暗な広いフロアの中で頭上にだけ明かりを灯し、同じチームの社員さん三人と私の計四人でせっせと原稿の校正をしていた。夜の9時すぎ、机上のPHSの液晶画面にバックライトが灯り、ぶぶぶと震えた。表示された着信番号は、以前三日間待ち続けたのと同じ番号だ。心臓がぶるっと跳ねた。PHSをわしづかみ、オフィスを出て廊下を抜け給湯室へと走り込み「はい」と電話に出る。担当の女性は、「どもどもー」と軽い調子で「ヤンシナの結果ですけど……」と言葉を切った。なんだそのドラムロール待ちは。もったいぶらずに!佳作を!佳作をくれ!せめて佳作!!「……大賞です!」「えっ」「おめでとうございます」「え、ほんとに?」「はい」「佳作でいいと思ってたんですけど」「え、なんで(笑)」

今ひとつ現実味がないまま真っ暗なフロアに戻り、一角で残業していた三人に、ニコリともせず「いまさー電話があって」と切り出したら、不幸でもあったのかと心配の目を向けられた。「いや、変な話じゃない。ヤングシナリオ大賞の結果の連絡だったんだけど……」しまった。つい言葉を切ってしまった。人はこういうとき鳴らないドラムロールを待ってしまうものなのか。慌てて付け加えるように「大賞だって」と口にした。途端に、悲鳴のような叫びと共に、三人が立ち上がった。「えーーーーーっ!!!」「うそ!すごい!」「わーーーー!おめでとう!!!」「野木ちゃん!!すごい!!」と夜中のしんとしたフロアが大騒ぎ。四人しかいないのに。私以上に喜んでくれてありがとう。おかげで少し実感できた。

12月。今はもうなくなってしまった神泉のドイツビール屋を借りきって同僚や友人を呼んで宴を催した。その際に配った自作の栞を先日久々にみつけたのだが、悲壮感が漂っていた。身も蓋もない話が続くので前半のみ紹介。

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今の事情は知らないが、当時はプロデューサーによってギャラがもらえるかもまちまちで、この後なにかの企画書で5千円もらったこともあったものの、デビューしないことには生活できない。何も進展せず、何も糸口がつかめないまま、時間は過ぎていく。まずい。まずいぞ。思っていた以上に厳しい。ひょっとしてひょっとすると、屍のまま終わるのでは……?しかしもう脚本家以外になるつもりもない。困った。

困ったので、旅に出た。有休も溜まっていたし、仕事の依頼もない今ならどこへでも行けると気づいてしまったからだ。バイクに一人用のテントを積み、まずは岐阜の友人の実家へ。町内の祭りに参加し、神戸の友人宅を経由、淡路島から四国へ渡り、九州へ。ずっと行きたかった長崎の軍艦島にも立ち寄り、鹿児島の友人宅が最終目的地。思い出の写真6選。

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徳島へ着いた早々、走行中のバイクから買って三ヶ月のスマホが落下。後続車に轢かれ粉々に砕け散り、一時間探したがバッテリーとカバーしか発見できず。その日の予定を諦めて高松のauショップへ行き、同じスマホを買い直した。紛失保険を使っても5万円かかり、泣いた。

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香川では製麺所をはしごして讃岐うどんをひたすら食べる。おばあちゃんが一人でやっていたりする。

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フナムシの大群 vs 人間はわたし一人。負ける。

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軍艦島へはNHKドラマ『深く潜れ』を観てからずっと行きたかった。DVDBOXも持っている。

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阿蘇山のススキ野原。美しく壮大。バイクで走ると最高。

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鹿児島のスペクタクル、桜島。四六時中噴火しており初めて見ると度肝を抜かれる。人が住んでいるのが信じられない。いやあ、楽しかった。この旅がなにかの役に立ったかというとそうでもないが、その後を思えば行っておいてよかった。

帰京して二週間後、とある女性プロデューサーから電話をもらった。ヤンシナ受賞直後の懇親会で話をしたことがあるらしいが、一度に大勢の人に会ったために覚えていなかった。なんでも、いま手がけている来年1月期の月9で新しい脚本家を探しており、チャレンジしてみないかということだった。ラフな設定と配役はすでに決まっており、それに基づいて第一話のアバンを書くことになった。声をかけられたのは私だけではなく、採用されるかどうかは原稿の出来次第。制限時間は48時間。これまでの中で最も大きな案件で、タイミングとしても最後のチャンスに思えた。これをモノにできなければ終わりだ。不退転の三文字が頭に浮かぶ。2011年11月、ヤンシナ受賞から丸一年が過ぎた日のことで、後に採用されたアバンと改訂した第一話が私のデビュー作となった。そこからは怒涛。息つく暇もなかった。我ながらよく走ったが、たかが十年。人生は続く。苦楽も続く。願わくば、この次も悔いのない十年を。