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日常にはびこるトゥ・マッチなヤツ

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 新聞をとるのをやめたのには理由がある。何よりもあの分厚さが場所をとってしかたない。1か月分も溜めようものなら結構な量になる。ただでも狭い家である。ビデオ、CD、テープ、本はあいかわらず地層を形づくるがごとく蓄積し続けているし、べランドの観葉植物さえも増殖の一途をたどっている(熱心に植え換えしてるせいだけどさ)。
 我が家で確実に減っているものといったら、5日に1個は割っている皿やコップ類だけだろうと思われる(手がずさんに生まれついた人がいるせいだけど)。
 新聞といったって、朝刊と夕刊が来るわけだから、これに全部目を通すのだって並たいていの作業ではない。かなりの時間とエネルギーを要する。しかも、いけないことに、記事よりも量があるように見えてしまうあの広告類までつい読んでしまうのだ。不動産広告とか目を通していると、結構知らぬまに時間が過ぎてしまっている。
 ダイレクトメールなんかもそうだけど、何でも自分のポストに入っていると、けなげに思えてしまって、つい全部読んでしまうのがいけないのだろうな、きっと。
 かといって、忙しい時などは全然新聞を読まない日が何日か続いたりする。やっと時間の余裕ができたなと思っても、何日も前の新聞から読み返そうなどとは、とうてい思わないのだ。となると、テーブルの上やカーペットの片隅に転がっている新聞紙たちは、明らかにただのゴミの山にすぎない。
 そんなことから、思いきって新聞をとるのを止めることにした。むしろそれは、新聞を読まなくなったらどうなるんだろう、という興味の方が大きかったのかもしれない。
 で、新聞をやめた結果どうだったかというと、全然日常生活に支障はなかったといっていい。
 確かに、ものたりない気分は当初したものだった。ねぼけ顔で階段を降り、1階のポストをのぞく。新しく開店したピザ屋のメニューと出張マッサージの広告だけしか入っていない。

「あっ、そうか、新聞やめたんだっけなあ」。

 外を見るとやけに風が強い。雲の流れも普通じゃない。雨が旧に降り出す。「へんな天気だなあ」と空をながめる。
 2、3日して人に会うと「台風すごかったですねぇ」と言われ、初めてそうだったのかと気がつく。そういえば最近、テレビもほとんど見ていない。新聞のテレビ欄を見なくなってからというもの、テレビそのものにも興味がわかなくなってしまったのだから不思議なものだ。
 先日、熱を出して10日間くらい寝込んだことがあった。何も読まないし、もちろん外には一歩も出れない。ときどき鳴る電話以外、ほんとに静かなものである。”人間ていうのはそれほど考えたり、気にしたりする事なんていらないものなのかもしれないな”と、ふと思った。
 情報がまったくなかった時代って、こんな感じだったのだろうかとも思う。気にすることといったら、天気と自分の体調くらいなものだろう。朝起きて、空をながめ、「さて今日は何をしようか」と考える。人間本来の姿って、すごく平和だったのかもしれない。

 かくして、我家ではまだ新聞を読まない生活が続いている。たいていの情報は雑誌でまかなえてしまう(それほど今の雑誌の情報量は多いのだ)。雑誌は押しつけがましさがないし、その時々によって自分で選ぶことができるからまだましだ。
 つい最近、ホテルに泊まったので、新聞を久しぶりにじっくり読もうとした。しかし、すぐに気持ちが悪くなってしまった。「このなんという情報の散漫さ!」「おまけに尻切れトンボな記事!」「人間を感じさせない気味悪さ!」。まったくもって”お前はいったい何者なんだ”と聞いてみたくなるような不気味な読物だった。
 人間の習慣というのは、情けないもので、ちょっとした不安を失くそうとするために、いろんなものを犠牲にしているんじゃないだろうかとも思ってしまう。

【1990年「美容と経営」に掲載のコラムを、原文のまま掲載しています】

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