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他人事じゃない。

テレビのでもSNSでも、どこでも毎日耳に入ってくるニュースたち。

暴力、ハラスメント、DV、虐待、イジメ、、、

ありとあらゆる事柄には、必ず加害者と被害者が存在する。
当たり前な話だけれど。

加害者が口にする言葉に「そんなつもりは無かった」が多いのは、もしかしたら本当に「つもりが無かった」のかも知れないと、ふと思った。

加害者になった側は、それらの言動をする事で気分が良くなったり、心地良かったりしたんだろう。
「つもりが無かった」と口にするのは、気持ちを考慮すべき尊重すべき「相手」がそこに存在してないから。

「自分が」心地良くなるから。
「自分が」気分良くなるから。

多分、そこに存在してるのは「自分」だけだから。
見えてないから「つもりが無かった」と主張するんじゃないのかな?と思った。

その人にとって、目の前の「あなた」が存在してない。認識されてない。
目に映っているだけ。
無機物と同じ感覚なんじゃないのだろうか…
だからこそ、平然と「そんなつもりは無かった」という言葉が口に出来る。

でもこれ、SNSが当たり前な今、明日は我が身な事なんじゃないかな?
その場の勢いで、どんな言葉でも書き込むことが出来る。
画面の向こうの不特定多数は、目に見えない。実感出来ない。
思いつきで書いた言葉がどれほどの威力で相手に届くのか、文字からだけでは推測出来ない場合も多い。
伝わるニュアンスがいつも正しいとは限らないから。

批判する「つもり」が無くても、届いた先では批判されたと思われるかもしれない。
傷付ける「つもり」が無くても、届いた先では傷付けたかもしれない。

ネット社会だからこそ、気を付けなきゃいけないんだと思う。
自分が相手にした事、言った事は、刃になってないかどうか。

人は関わりを持つ中で、絶対誰かを傷付けている。誰も傷付けずに生きていける人なんていない。
それでも、ちゃんと「相手」が見えていたら、考えられると思う。して良い事とダメな事。

「相手」を考える事は、どんなにめんどくさいと感じても、やめてはいけない事なんじゃないかな?
年齢も性別も関係無く。

「皆やってるから」

そんな事は通用しない。
「皆」なんて人はいないんだから。
それぞれが「個」なんだもの。