DAY6「すべき」じゃなくて「やりたい」だった
お夜寝(そんな言葉はない)から起こされ、なんとなくSNSを眺めながら「書くか〜?」「明日でええか〜?」とぼーっと眺める、みんなの書いた文字、文字、文字。それらをみていて「まあ、書くか」に切り替わったのが0:34。
22時ごろに床で眠り始めて「そろそろベッドで寝たら」と起こされる、そんな日がここ一年くらい続いてしまい、なんか妙な習慣になってしまった。
日記、いつもこの時間に書き殴ってるけど、朝とかに書いてみたらちょっと違うんかな。書きぶりとか、内容とか変わりそうな気もしなくもない。まあ、毎回この時間はある意味寝起きの時間でもあり。なんとなく書けそうな気持ちになるのでこの時間がいいんかな。いいんやろうな。
2日間の記録
昨日の晩、妹1がうちに泊まりに来ることになっていて、そのための用意をちょっとだけ頑張った。(トイレと洗面台と風呂を雑に掃除、和室に置いてた衣類の移動などなど)
8日に友達を呼んでいたし、最近夫の足の怪我に合わせてバリアフリーっぽい家だったこともあり、片付けは最小限で済んだ。ヨカッタネ
夜22時すぎに駅に迎えに行って、1時までだらだらと意味のない楽しい会話をして、おやすみ。今日は朝7時ごろに起きて妹が東京で買ってきたベーグルを食べた。バター塩ザラメ、角煮キーマ、かぼちゃチーズ。外は豪雨。豪雨の中、車で梅田へ。そしてかねてより予約してくれていたうなぎ屋さんでランチ。その後阪神百貨店でウインドーショッピング。最近、書き物が多いし、書斎の机のあたりにあたらしいルームフレグランスが欲しいな〜とかなんとかだべりながら歩いていると、妹が「このブランド、どう?」「なんかいい感じだった気がする」と、あるコーナーを指した。いいね。
妹がそれぞれ試香紙(ムエットって言うんだって/調べた)にシュッとふきかけて渡してくれる。
1枚目、あ〜なるほど。
2枚目、わ、これ好き。
3枚目、おお…!でもイメージちゃうかも。
2つめ、いいな。きりっとした柑橘系と爽やかなジャスミン、の奥に、不思議と落ち着く上品な香り。これは何?香りもいつか勉強してみたいな。
うん、いい。イメージ通り。落ち着いた、自然な呼吸の中に、凛とした一本の筋というか意志というか、背筋の伸びた「何か」がスッとそこに立っている、そんなイメージが浮かんでくる。
これに決まり。
ま、私の頭の中は、いつも騒々しくて空回りやねんけども。
今日の日記は、この香りをシュッとひと吹きして書いてみます。もしかしたらちょっとでも心の体幹強くなるかも。
(ここまでが前置きやねん長いよね知ってた)
「あなたにとって、教材研究って何?」
前にGeminiさんからもらった問い「あなたにとって教材研究って何?」確かに。あんまり考えたことなかった。しなあかんもん、して当然のもん、と思ってた。いや、思ってすらなかった。そこにあった。から、Geminiさんからもらった問いを足がかりに、ここらで一回、捉え直しとくのはいい機会かもしれんな。
3つは重いから、今日は①についてちょっと向き合ってみようかな。
①「教材研究せんでもしんどくない」わけ
単純で、今回は、失敗を「失敗だね〜」と受け止められた。これは自分の中でまれに起こる現象で、現状の受け入れと諦めとが入り混じった感じ。十年超えてくると、同じようなケース(今回の場合は「こけた」授業)に何回も出会ってきてて、「ああ、このパターンね」「知ってる知ってる」となり、あんまり深くは落ち込まないかなっていう感じ。
あとは、抱えてる業務が多すぎて、終わったことにむにゃむにゃしている暇がないっていうのもあるかな。ほんとに今週の木曜に控えた不本意な研究会(何度でもいうよ)が重荷で重荷で。これが無くなりさえすれば私ってなんて身軽になれるんだろう、とさえ思う。それはある意味、自分のキャパシティを把握して心の動きをコントロールできる/しようとすることができるようになったというか。
友だちとのLINEで、またぽろっと出たフレーズ(いつも勝手に引用してごめんやで)
「諦めるって成熟」
これ、ある意味今の自分を許す言葉かもしれんな、と思った。若い時に比べてできるようになったこと、なんぼ年取ってもいつまでもできんこと。いろいろ経験させてもらって、「それにしても自分っていつまでたっても変わらんな」と思い知らされる。もしかして自分の器の大きさって、そろそろ、だいたい、決まってきてるんかな?これからは、あるもんで、「無理してなくていい感じ」になるように生きていく方法を探していくフェーズに入っていくんかもしれんな。
これは思い出してみれば、別の友だち🍧と話したことがベースになってるかも、と思って。
ってサラッと教えてくれて、それが妙に心に残って。
諦観、あんまり普段意識する概念じゃないけど、そうか、そうよな。諦めることは悪いことじゃないよね。その道じゃないな、もとい、その道じゃなくても目的地には辿り着くよな、って知って、その道を選ぶのをやめることも「諦める」に入るよね。諦めは成熟。知ったから取れる選択でもあるんかな。
じゃあ、業務量が多い時に教材研究を諦めるという選択は、自分は幸せなんかな、ってふと思って。
いや〜〜〜ちゃうな〜〜〜ちゃう。
それは、ぜったいちゃう。
だってね、教材研究、好きなんよ。
めっちゃ単純か、自分。
せんでもいける(ときもある)けど、やりたい。
いや薄々は気づいてた。教材研究なしの授業がなんでしんどかったか。好きなこと抜きで、オラ楽しめ、オラ楽しませろ、って言われても無茶なんよな。そらしんどいわ。
そんなん、授業者も子どももなーんも楽しくない時間になるに決まってる。(だって好きなことさせてもらえてないから!)で、「こけた」ことにショックを受けてない。(だってこけるに決まってたから!)
ごちゃごちゃ言うたけど、結局自分がやりたいこと、できてなかった。これに尽きるんよな。単純やな〜。
教材研究がすきなのは、教材研究自体に喜びがあって、それ自体が自分にとっては仕事であり趣味であり娯楽であり。
今までは「せなあかんこと」と「やりたいこと」が重なってたからあんまり意識してなかったけど、今はほかの「やりたくないこと」で教材研究が押しのけられてしまってる状態で。
(いや、教材研究より大事な仕事ってなによ、とは思うが。)
でも、10年もやってると、教材研究がっつりやらなくても、なんとなくポイントとか、押えるところとか、じっくり取り組む/取り組ませるところとか、わかっちゃうから。教材研究甘くても、そこそこの授業成り立っちゃうから。
やから、後回しになっちゃってたなって。楽しいことを後回しにしてる時間って、苦痛でしかないよな。うん。そうやな。
やらんでもできる(ときもある)けど、それはただただ「できる」だけであって、自分にとって望んでそうなった状況じゃない、っていうところがけっこうポイントな気がする。
エナジーの根源となる願い
自分にとって、教材研究は「やりたい」ものだった。知ってたけど言葉にするとその気持ちが強くなってくる。言葉って不思議やな。
同僚とか、相互フォローさんに、「よくそれだけ教材研究できますね」って言われた時、冗談っぽく「趣味なんですよ〜」って返してたけど、これ、ガチだった。
もしかしたら私の周りの人がこの日記読んだら「いや今更何ゆうてるん」てなると思うけど、半分冗談で言うてたんよね。100だったみたい笑
教材研究に夢中で取り組む、授業準備を懸命にする、その根源は「好き」だったんやな。そして、そのもっと奥の奥の方の願いは「いい授業がしたい」なんかもしれん。
ああ、未来の宿題ができてしまった。
「じゃあ、いい授業って何?」
2024/9/22 27:26 (3720文字)
以下、この日記を読んだGeminiさんからのお返事
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