たとえば不随意筋の奏でる音楽・・?

2022年9月11日、水道橋Ftarriにて、
本藤美咲 (バリトン・サックス)
大熊紺 (コントラバス)
岡川怜央 (エレクトロニクス)
トリオ
を聴いた。

若手の先鋭による、まさにジョン・ケージ的な意味で、などというと「違う」って声が出そうだが、シリアスで禁欲的で、およそ音楽の豊かな歴史や生命力に背を向け、楽器の可能性にすら猿ぐつわをはめるような演奏でした。こうなるともはやフリー・フォームですらなく、「不自由即興」とでも言うべきスタイル。聴いてて胃が痛くなるような過剰な抑制を感じる。デレク・ベイリーの「カンパニー」とかの初期とかでも、もう少し愛想とか活気があるわけで、歴史的に確立されたヨーロッパのフリー・インプロヴィゼーションのような有機的な相互作用をも回避する意図がはっきり出ている。
おそらくエレクトロニクスをも含めて、出演者は「普通の」音楽を聴かせるスキルを持ちながら、あえて最も貧しい音だけを用いて反応し合い、しかし自然に生じるであろう盛り上がりをも回避・拒絶する。2セットとも、バリトン・サックスだけが後半焦れたように、密集し起伏のあるサウンドをぶつけたが、他の二人はあえてとりわけ無表情な音で応じる。解放感を求める埋火をも消そうというような、「アンチ」快楽主義。できうる限り、イマジネーションとか情動を殺した音を、わざと選ぶ。さもなくば無音を・・。ガマの油しぼりというか、だるまさんがころんだ式というか、動いたら負けというくらい、かたくな。この「水道橋ftarri」でいくつかのライブを聴いた印象として、リスナーを含め、若い世代にこういうスタイルの演奏がはやっているようなのだが、なぜなのだろうか。

このような演奏の参照となっているものを考えると、たとえば進揚一郎というドラマーの音楽が思い浮かぶ。彼の「作曲」は極度にコンセプチュアルなもののようで、それは自己表現として作ったイデーを演奏家に具現化させるというよりは、うかつにも即興を始めてしまいそうな演奏者に「かせ」をはめる拘束具のように響く。ホームページでも自身のバンドの一つについて、「演奏者のエゴやクセや自意識を一切排除していくところから生まれる音楽。」としているので、その問題意識は首尾一貫しているのではないかと思われる。さらに言えば、より大きな流れとして、そういう方法論を押し出す風潮があるのではないかと、私には憶測される。とにかく意図的に「音楽にしていかない」とでもいうか、エレクトロニクスも表現の拡張ではなく「音の貧困化」に役立つので導入しているような気がする。

だから今の若手がハードコアな即興演奏を目指す場合にも、こういう無機質かつ散漫な展開を「集中力をもって」意識して心がけているのではないか? それって何のためかというと、わからないんだけど。とりあえず、いわゆる「フリージャズ的なもの」はやりたくないのだろう。理論や法則に基づかないでの、まったくの即興演奏は、どうしても演奏者のパーソナルな快楽原則や情念に依拠しないと、うねりが出てこないものだが、そういった要素を介さない形で、肉体から音楽を引き出したいということかもしれない。言うなれば不随意筋の奏でる音楽・・?

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