見出し画像

短編|『季節はめぐり、僕らはどこかでまた出会う』 第3話(全6話)

エピソード3 「ホタル」


 僕がピアノを習おうと思ったのは単なる思いつきで、せっかくこの世に生を受けたのであれば、楽器の1つでも弾けた方が良いんじゃないか、なんて浅はかな考えからだ。もちろん、もうそれなりに歳を重ねていたから、音楽で成功したいとか、有名なクラシック曲を弾けるようになりたいとか、そんな目標さえ持っていなかった。ネットで調べて家から通いやすそうなピアノ教室に連絡し、体験レッスンを経て、正式にレッスンを申し込んだ。

 「年齢に関係なく、教え方はだいたい一緒です」

 ピアノ教師である寺田理子てらだ りこは人工的に合成された音声のような抑揚のない話し方でそう言った。話を聞けば、その時、彼女が教えていた生徒の中で僕が最年長とのことだった。確かに僕は物覚えが悪く、小さな子どもよりも手のかかる生徒だったろう。特にキーボードタッチで凝り固まった手首の柔軟性の無さは自分でも情けないくらいだった。


 その日は大粒の雨が降っていた。僕はいつもどおりの時間に玄関の扉を開けてマンションのエレベーターに乗る。エントランスから見る外の景色は、アスファルトに弾けた雨の破片でうっすらと白くもやがかかっている。僕は傘をさして駐車場まで歩き、車に乗りこむ。エンジンをかけ、ワイパーのスイッチを入れ、マンションから大通りを目指す。15分ほど運転すると、街から抜け出て、田んぼや畑が広がる郊外の一本道を進んでいく。すでに梅雨は終わっていたが、フロントガラスから見えるどんよりとした空はまだ夏を迎える準備ができていないようだ。同じような風景の中をしばらく行くと、田園の中ににポツンと建っている寺田理子の自宅兼教室が見えた。
 寺田理子の家に着き、インターホンのボタンを押して玄関からいつものようレッスンの行われる部屋に向かう。部屋のドアをノックすると、「どうぞ、お入りください」といつもの返事だ。扉を開くと、部屋は遮光カーテンが閉められ、薄暗い部屋の中は、目が慣れるまで様子を把握することすらできない。入り口のドアの対面にある窓は少しだけ開けられているようで、時折吹き込む弱い風でカーテンが揺れ、カーテンの隙間から微かに差し込む光が、窓の向かいに置いてあるピアノと椅子に座る寺田理子の存在を示した。

 「すいません、少しの間、そこの椅子でお待ちいただけますか」

 そう促され、僕は部屋の片隅に置いてあるレッスン待ちのための椅子に座り、ピアノの前に座る寺田理子を横から眺める。部屋にはピアノと寺田理子と僕だけだ。いつもならすぐにレッスンが始まるところだが、寺田理子はこれから演奏会が始まるかのような神妙な面持ちで鍵盤に目を落としている。しばらくの沈黙の後、フゥと大きく息を吐いた寺田理子は、姿勢を正し、両手を鍵盤の上に構え、重厚な和音の響きから始まる曲を奏で始めた。だんだんと暗さに慣れて来た目に映ったのは、演奏に合わせてユラユラと揺れる寺田理子の身体からだ、そしてそれを包む白いシャツと傷から流れ出た血のような深紅のスカートだった。
 序盤はゆっくりとしたテンポで、これから始まる長い旅への期待や不安を表現するかのようだ。寺田理子は普段から感情を顔に出すことはほとんどないが、この時も彼女の表情には感情を読み取れる情報は無いに等しかった。ただ、レッスンをしているときよりも幾分穏やかな表情だと感じたのは私の思い違いかもしれない。カーテンの隙間から漏れる光は、時折、鍵盤の上で交差する寺田理子の白い2本の腕を断片的に照らす。僕はそのとき奏でられていた音の記憶がほとんどない。一定のリズムで上下する腕、うごめく指先に気を取られ、僕の耳に届いているはずの音を、脳が認識できていなかったのだろう。
 一瞬、音が止んでから再び曲が始まると、今度は一転して力強いタッチで、低音と高音のメロディラインが絡み合う曲調に変わる。それまで左右にゆらりゆらりと揺れていた寺田理子の上体は、一本の芯が通ったように重力に対して真っすぐに立ち上がり、そこから伸びた細い二本の腕がしなるように指先に力を伝え、末端の10本の指が鍵盤を力強く打つ。レッスンで彼女が「力強い音を出すためには、脱力しなければならないんです」と言っていたことを思い出した。演奏を続ける寺田理子は、目をつぶったまま眉間にしわを寄せ、時折口元を歪める。その顔は、怒りや悲しみ、そのはざまに相対的に存在する瞬間的な歓喜を表現しているように感じた。彼女の人間的な振舞いを見たからか、僕は徐々にリラックスし、目を閉じて音に集中し始めた。
 再び音が止み、今度は柔らかなタッチから静かな流れるような旋律。時折鳴る短い高音が穏やかなメロディに軽快さを添える。部屋の中の風はいつの間にか止んでいて、視覚を奪われた世界の中で研ぎ澄まされた聴覚に、寺田理子が発する音だけが脳に直接的な刺激として伝わる。寺田理子と僕は、この暗闇に中で音を通じて重なり合う。いや、僕たちは音で満たされた空間の中に肉体ごと溶け出し、混ざりあってしまったかのようだ。もはやその音は寺田理子が奏でたものではなく、音自体がまずそこに存在し、意思を持って僕たちの身体、そして心に直接触れているように感じた。曲は少しずつテンポを速め、低音と高音、各々の旋律が絡み合い、音の強弱と相まって、時空は歪み、不安、怒り、喜び、悲しみ、恐怖、全ての感情がその空間に流れ出した。シャボン玉に反射されるような様々な色の光に身体が包まれると、脳裏に記憶されている華やかな香りや不快な臭い、懐かしい匂いが同時に襲ってきた。そして僕は、自分自身を完全に失った。


 どれぐらいの時間が経ったのか分からない。気が付いたときには寺田理子の演奏は終わっていて、回復した視界の中に直立した寺田理子の姿を認めた。

「では、レッスンを始めます」

 カーテンを開けた寺田理子は、何事もなかったようにいつもどおりレッスンを開始した。朦朧もうろうとした意識の中、鍵盤に触れる僕の手は、いつも以上に硬直してまともに曲を弾けなかった。しかし、寺田理子はそれをとがめることはなかった。僕の動かない手を見つめる寺田理子の目は、いつもよりも優しく、暖かかった。その日のレッスンが終わり、部屋を出て行く僕を見ながら、寺田理子は僕に向かって微笑みかけた。それは僕が見た、最初で最後の彼女の笑顔だ。まばたきの間に消えてしまいそうな、淡い光のような笑顔だった。

 


エピソード4へつづく


サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。