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もうどこだったかも覚えていない体育館の2階から眺めた風景

私は子供の頃から、運動が得意な方ではなかった。勉強も好きではなかった。しかし、小学校時代における優劣の基準の多くはそこだったと思う。それに敏感だった。私はテスト用紙の裏、教科書の片隅、時には黒板をキャンバスにして好きな絵を描いた。優位に立てる土俵を探していたのだ。その頃、名前も知らぬ貴方は何をしていたのだろうか?数年後、中学3年の夏。私は貴方に負ける。自らの土俵だと信じた「卓球」で貴方に負けるのだ。

私は中学校に入り、卓球部に入部した。「動く文化部」と揶揄される、そこは私にはピッタリの土俵だった。生まれ持った身体的な素質ではなく、分析や戦略、思考を巡らせた結果が、勝敗として明確に提示される個人戦。TVゲームを攻略していくような感覚。それを活かして、分かりやすい評価として手にしていけることが私の快感だった。
中学校3年の夏。地域では有力な選手に育っていた私は、何とか県大会を戦い抜き。東海大会の出場権を手にした。静岡県で16人が出場できる枠の16人中の16位だった。声高に自慢出来るような成果ではないが、当時、学校内では素晴らしい成果として認識されたものだった。嬉しかった。

東海大会の当日。早朝に支度を進め、県外の会場まで車を出してもらった。他部員は出場していないので、コーチと親の3,4名で遥々と足を運んだ。一回戦。僕は負けた。あっさりと負けた。
静岡県の16位として出場すると、他の県の1位と当たるトーナメントの仕組み。それは知っていた。三重県の1位である貴方に、ぼくはあっさりと負けた。貴方は私のことを、きっと覚えていないだろう。ぼくも貴方の顔も名前も試合中のことも、ほとんど覚えていない。それほどの実力差、圧倒的な敗北だった。負けた、負けた。でも、悔しくはなかった。

時刻は11時頃だったと思う。私は2階席へ腰掛け、ぼーっと体育館の風景を眺めていた。大会はまだ始まったばかりだった。夢にまでピンポン球の音が聞こえるようになった三年間。その終わりはとても静かなものだった。地域ではトロフィーを手にする私も、県大会で善戦を繰り広げる私も、思いをたぎらせて努力を重ねた私も、ここでは全くの無力だった。雑踏の中のひとり。何者でもない、ただのモブキャラだった。

負けた。これは、教えてくれたのだ。「上には上がいる」と。何度も人から聞いた、その真理を、理解した瞬間だった。私の卓球に対する意欲は消えてしまった。しかし、そこに挫折感はなかった。次の新しい土俵を探し始めていたのだと思う。

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