デジタル、で失われた(?)もの。大切なもの。
世紀末を30歳前後で迎えた身として、いくつかの「時代」を過ごしてきた身として思うに、身の回りのいろんなものが「進化」しました。デジタル化されることで、「便利」になる一方で、忘れたくない、アナログだから存在した「いいこと」もあったはず。「昭和世代」が感傷に浸りながら、未来にも忘れたくない「感覚」を書いてみます。
本・辞書の、”ページの厚み”感覚を失いたくない。
電子書籍、電子辞書。携行が便利だし、必要な箇所にたどり着きやすい、本屋に買いに行かなくてすむ...などなどたくさんのメリットがあります。機器もどんどん進化してますよね。
けしてこれを否定しないのですが、例えば文庫本。「大作」でページ数が多い作品は分厚い。あたりまえなんですが、電子書籍ではこの感覚がまず薄れます。そしてページを読み進めて、1/3とか半分まで読み終えたときの、しおりが挟まれる位置。
「ここまで読み終えたぜよ」という達成感があります。電子書籍の「50%」ではなくて、「1㎝くらい」という見た目が大きなインパクト。
辞書も、「あの単語って、2.5cmくらいのところにあったよなあ」っていう感覚で思い出したり。また、”今、調べている単語”の隣の語句も覚えちゃったり。
まるきり「デジタル」でないんですが、そういう「余計な」感覚、あります。
時計が刻むのは、正確な時刻だけではない。
デジタル時計のみならず、新しい時計は「常に正しい時刻」を知らせてくれます。自分から合わせにいかなくてもいいようです。以前は(私もそうでしたが)、家の時計や腕時計、”敢えて”5分進めておく、という「手法」がありました。約束に遅刻しないように、朝電車に乗り遅れないように。
こんな感覚もなくなっちゃった気がします。
細かいことですが、例えばこの「敢えて5分」の場合、正確な時間を知るためには、時計を見て「引き算」をしなければなりません。「今から20分後」の正確な時間を知るためには、足し算と引き算。意外に、「時間計算」の感覚が鍛えられていたのかも?
-遅れが5分以上になってきたら電池交換ね、という合図もアナログ的感覚ですね...
レコード、カセットテープの「存在感」
音楽を聴くための機器は、(特に昭和世代には)信じられないくらいちっちゃくなりました。でも、1979年の「ウォークマン」発表の衝撃は超えられないんです。「外で聴く」という概念がなかった時代。衝撃的でした。
その時代の主役はカセットテープ。FMやレコードから「こんなちっちゃいカセットテープに録音ができる!」という”発明”でした。FMで流れる音楽を、開始と終了に併せて、カセットデッキの「録音ボタン」を押して収録。その間は、極力黙っている。なぜならFMラジオが流れる部屋の音そのものを録音していたからです。それしか方法がなかった。
アナログテープなので、録音時間が決まっていて、主流だったのは「46分」のテープ。片面23分x両面です(既に、A面B面という感覚が、今は存在しませんね)。
この時間内に、できるだけ空白時間を作らないように曲を選択するか、がテクニック。そう、ここでも「時間計算」が鍛えられていましたね。
「レコード」は、アナログの象徴みたいな感じですが、”アルバム”をターンテーブルに載せて、針を落とす、今の時代から考えると、「贅沢な時間」かもしれません。30cmというサイズなのでジャケットも見ごたえあり。持っていること自体が自己肯定感を感じられる、そんな感覚でした。
まだまだありますが、
・テレビのチャンネル 8チャンネルからNHK(1チャンネル)に変えようと思ったとき、かならず他のチャンネルを「通って」行くので、そので「偶然の出会い」があるかもしれない
・ノートに手書き 「本、辞書」と同じですが、「あのあたりにメモしたよなあ」っていう感覚を持てます。
昔話が止まらなくなっちゃうので、この辺で打ち止め。
本の厚み、敢えて5分、レコードのジャケット、
デジタル世代、デジタル世界から見れば、「本筋とは無関係な余分なもの・こと」なのかもしれませんが、こういう
「余分」に囲まれて過ごす時間
のほうが、ゆったりできる気がします。
デジタルがよくない、という話ではありません(ビジネスでは「デジタル」の領域にいる立場です)。両方接することができる世代で、よかったなあ、とポジティブに考えています。デジタルとアナログどちらか、ではなく、これからも両方、使っていこうかと(先日、「万年筆」を買ったばかりです)。
個人差ならぬ、「年代差」ということでご容赦を。
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