人の眼を見て話すのは失礼だと思ってた
ヒトの眼をきちんと見て話すのは失礼だと、12歳の2月まで思っていた。
「眼を見つめる」行為は、ヒトの家の窓にぺったり張り付いて、中を覗き込む行為と同等である。失礼である。建前も虚栄も秘密もマルミエだ。
それに、知らないヒトはじろじろ見てはいけないのに、知ってる人ならいい、というのもヘンだ。
だから、「ヒトの眼を見て話しましょう」という言葉は「棚からボタモチ」と同じで、それはただの「たとえ」「比喩」であって、なにか別の真理を表しているのだろうと思っていた。外見じゃなくて内面を見ましょう、みたいな。
なぜ、12歳の2月かというと、その時、中学受験の面接で順番待ちをしていたからである。
2月、外は雪。千代田区にある女子校の二次試験の面接。底冷えのする廊下に並べられた椅子に座って待っている間、となりにいた髪の長い、利発そうな女の子が言ったのだ。
「ちゃんと眼を見てハキハキ答えないとネ、落とされちゃうってネー緊張するネー」
えええ!?
一瞬、その子が競争相手を蹴落とすために「嘘八百」を言ってるのかと思った。
え、そーなの!?
なんだ、みんな話す時は人の眼を見るんだ!文字通り!比喩じゃなくて!
私は見たことがなかったので、相手の眼がどこを見てるか知らんかった。
我しつこく思う。
時代や国が違ったら、人の眼を覗き込むのはやはり失礼千万、切捨御免であろう、と。
「目線が合う」ということは「頭の高さが同じである」ということである。殿様と目を合わせて話すなんて、頭がたかーい!
江戸時代、目上の人とは眼を見ないように頭を低く下げて「恐れながら申し上げまするッ」なんて感じだったはず。
なんで、「礼儀」って時代と国で変わっちゃうんだろうなー。
今となっては出典があやふやなのだが、むかしむかし、タイでは婚礼の決まった男女が「お互いの眼をジッと見ながら何日も毬を投げ合う」という儀式があったという。
これを読んだとき戦慄した。
素朴でシンプル、そして同時にすさまじくパワフル。
相手の存在そのもの、まるごとを「眼で喰らうような」儀式だ。
オーストラリア人は、道で向こうから歩いてくるヒトと、視線を合わせニコッと笑って一言気の利いたことを言ってさりげなく視線を外しすれ違う、これを数秒でやってのける民族である。
自然にできるわけじゃない。小さいころから訓練されているのだ。
「訓練されていない」人は、たまに外出が面倒くさくなる。だからサングラスをかける。高い紫外線のため、皮膚がんだけではなく白内障も多いオーストラリアでは、「一年中サングラス」族は多い。
ただいま、メルボルンは真冬。ダウンジャケットにニット帽にサングラスというスキーヤーみたいなヒトがあふれている。私もその一員だ。
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