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渋谷と若者

渋谷は本当に若者の街か

都市や街に特色があって、この場所はこれ!っと言ったイメージがある場所は少なくないと思う。歌舞伎町なら夜の街、巣鴨ならおばあちゃの買い物処、八王子ならベットタウン。渋谷もその例外ではなく世間では若者の街として認識されているはずだ。

渋谷にとっての若者は70年代以降の開発により隆盛を得て、東京随一の街に発達するまでに不可欠な存在であったことは間違いない。渋谷に来た若者の間で流行ができ、メディアがそれを利用し発信することでファッションを始め音楽や言葉まで次々と文化を生んできた。


しかしこの状況を今の渋谷でも言えるのだろうかという疑問がある。評論家の宇野常寛さんは、文化を生む役割がインターネット時代以降ストリートからネット空間に移ったと指摘し、社会学者の宮台真司さんは早い段階で携帯の普及により若者が街から出て家で溜まるようになったと語っている。お二人の指摘は渋谷だけでなく日本中のどこの都市にも当てはまることだが、若者の文化によって発展してきた渋谷にとってはその意味は他の都市と比べものにならないくらい大きいだろう。

nocで1ヶ月を通して渋谷を考察する上でも重要なファクターになるとはずなので、今回は渋谷における若者を取り上げてみたいと思う。


■若者がいた過去・概念の現在

渋谷が発展してからの若者との関係性を大まかな年代をおって分析していきたいと思う。

・西武・東急の開発(70〜)

そもそもなぜ渋谷が若者の街と呼ばれるようになったのか、それは70年代以降の西武と東急の2つの電鉄の開発が鍵になる。

1973年に西武のパルコが渋谷に進出した。パルコ劇場やライブハウスのクラブクアトロ(1988)を始めとするエンターテイメント施設もオープンして、若者文化の拠点をつくることで人を集めようとした。西武は高度成長期における大量消費時代の単なる商業施設として展開するのではなく、次のステージとして文化的な価値をここで見出したのだ。

パルコのオープン時のキャッチコピーは、「すれ違う人が美しい公園通り」とパルコに訪れる人、強いては渋谷に訪れる人が表層的に美的感覚を獲得している、もしくはここで獲得するといったメッセージが込められているてようにも感じる。

センター街の北側に位置するLOFTは1987年に西武百貨店にシブヤ西武ロフト館として開店した。駅からも近く坂の始まりにある特徴的な場所で、生活雑貨を数多く揃えていることで時間も潰せる施設は、現在のように携帯電話のない時代において人気の待ち合わせ場所として選ばれていた理由も理解できる。

 
東急は文化屋雑貨店や大中といった中小規模の雑貨店が次々とオープンする中で1978年に井の頭通りとオルガン坂の交差部の角地に東急ハンズを開店した。品数が豊富で低価格帯の雑貨が並ぶ施設は若者にとって“とりあえず行けば何かある“の消費行動を促した。

翌年の1979年に若者の拠点として印象の強いであろう渋谷109をオープンした。109は開店当初は20代・30代女性向けのテナントを集積し、宝飾店やスポーツ用品店なども含む現在とは異なる形のジャンルの広い構成だった。109が現在のイメージのような10代のポップなイメージを持ち始めたのはバブル崩壊後だという。バブル崩壊によって大人向けの店舗が撤退し低価格帯の若々しいブランドを呼び込むことでギャルの聖地を作り出したのだ。

商業施設だけでなく1989年9月にはBunkamuraをオープンし 日本初の大規模シューボックス型コンサートホールを有する新たな文化拠点を作った。
 
こうして二つの電鉄グループが音楽・ファッション・雑貨のジャンルの拠点を渋谷に展開していったことで若者の聖地としての下支えを築いてきた。


90年代以降はメディアとの共闘によりさらに加速した形で進化して、全国に渋谷は若者の街というイメージを根付かせてきた。

駅前のスクランブル交差点から道玄坂方面に現れる109の円筒に大きく掲げられた広告は大きな宣伝効果となって文化を発信してきた。アムラー効果もその一つであり、当時若者に人気絶頂の安室奈美恵のファッションを模した女の子がこの広告を目印に109に集まった。

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屋外広告だけでなく90年以降に主にギャル雑誌が人気を博し全国へ渋谷の若者の知名度が展開していた。1995年に創刊の「egg」は素人の読者モデルを渋谷の街中でスナップ撮影したポロライドやプリクラを多用にしようするなど当時のギャルブームの一端を担っていた。

・脱若者化する渋谷(00年〜)


2000年代になると絶大な人気を誇っていた渋谷から若者が撤退していく。一つは携帯電話の普及が大きな影響を与えたこと。これまで渋谷に訪れる人同士で「見る–見られる」の関係が成立していた都市が人の目が携帯電話に移ることで舞台性の効力が弱まった。新たな文化を生み出していた関係性が弱まることで渋谷発の印象的なものが出てこなかったのが象徴しているだろう。

かつての時代を築いたメディアも機能を果たせなくなっていた。若者向けの雑誌も2000年代後半には休刊・廃刊になりメディアの転換は明らかであった。ギャル雑誌が人気絶頂だった時代に生まれた私たちの世代は、学生時代に「egg」などの雑誌の存在自体は知っていても流行っていたなど到底理解できない世代である。

もう一つは郊外の開発によるプチ渋谷化の増幅。東京近郊や全国の地方都市に大型のショッピングモールができ全国にチェーン店が展開することで渋谷の特異性が薄れたことで、渋谷だけでなくわざわざ東京に訪れる理由を見出せなくなった。


1999に完成したStarbucksとTSUTAYAをテナントに抱えるQ FRONT正面の街頭ビジョンは、交差点で待つ人たちの前にまるでCMのように流れる。信号の数秒の待ち時間用に流れる映像はとても秀逸なデザインだが周辺を流し見するこの時代を皮肉にも象徴しているようにも感じる。


・再注目される渋谷(10年〜)

近年の渋谷もゼロ年代から引き続き若者の視線から外れたままの街かと言われるとそれは信じ難い。再開発が着々と進み、新規の商業施設や文化施設の建て替えが行われ注目される機会が多い。またコロナ前までのインバウンドが好調時には、外国人にとっては物珍しく見える大量の人が行き交うスクランブル交差点を目的に観光客が多く押し寄せていた。しかしこれだけでは他の再開発が行われる大都市と変わらず若者の熱気が戻ったとは言うには無理がある。

若者の視線を引き戻した大きな要因はスマートフォンの普及と過去概念像である。わかりやすい例がハロウィンであろう。ここ数年ハロウィンと言えば渋谷での騒ぎが多く報道されるが、コスプレをして見ず知らずの人が街に集まるなら渋谷でなくてもいい。現に川崎や池袋では公式のイベントとしてハロウィンを開催している。その中でも注目されるのは渋谷だ。

前回記した通り渋谷は地形から人が集まりやすい構造になっている。


非公式のイベントでも大量の人が集まる一要因である。そこにSNSが介入し撮影した写真をアップロードし、それを見た人が渋谷に訪れ撮影した写真をと繰り返しの連鎖が起こる。70年代の「見る− 見られる」の関係性にもあったように自身の見た目に拘り披露するのは圧倒的に若者の特徴だ。ハロウィン時にはコスプレがこの機能を果たし渋谷を背景にSNS上で完結する。SNSと親和性の高い若者によって生み出された現象だ。

さらにかつての渋谷には若者が集まるという意識が常に火種として残っていて、ハロウィンなどの必ず街に集まらなければならない際に燃え上がり拠点を選定している。現在ではその正否がどうであれ渋谷をそのものが若者の街として御神体化しているのである。

■若者にとって渋谷とは

・カラーの無い街?

かつての渋谷には「とりあえず行けば何かある」という期待感があった。その象徴がロフトや東急ハンズであろう。時間的に余裕のある学生にとっての消費行動にこの無目的性は非常に重要である。言い換えれば決まった特定のものを探し求めて渋谷に駆け出すのではなく、着いたその場で探し求めていた。それが文化を生み出してきた要因であろう。現在ではそれがSNSにアップロードされる写真であったり、ハロウィンの体験であったりする。「とりあえず行けば何か体験できる」という期待感が存在している。

最近では宮下公園が開園し屋上には都市部ではなかなか目にすることのできない緑が広がっている。必ずしも若者に注視したわけでは無いこの無目的の場所が今後若者にどのような影響を与えていくのか興味深い。

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・若者達の街から若者の街へ

これまで話を進めてきたように二大電鉄が若者に向けた開発が成功し多くの若者を集めた。消費行動と同じように「とりあえず行けば誰かいる」といったように同じ境遇の若者が集まり、自分達の居場所として渋谷を選び生活の拠点として渋谷を消費してきた。しかし今の渋谷は若者にとって日常の溜まり場としての居場所ではなく、これまでの時代が作ったイメージとして存在する。つまり渋谷=若者の街は、実際の街の様子だけでなく記号性として機能している。若者が頭の中にこのイメージが存在するから渋谷を選ぶ。渋谷は若者が集まる場所から若者が訪れる場所に変化していったのだ。

根付いた記号はなかなか離れづらいが、新たな渋谷を展開する大規模な開発が若者にどの様な作用を与えていくか今後も観察していきたい。

ー 参考文献 ー
・「PLANETS vol.8」 宇野常寛 他
・「まちづくりの哲学:都市計画が語らなかった「場所」と「世界」」蓑原 敬 / 宮台真司
・「都市のドラマトゥルギー」吉見俊哉
「渋谷のハロウィンは何の夢を見たか――スクランブル交差点から考える 社会学者・南後由和氏インタビュー」
「90年代の女子高生は「援助交際でもブルセラでも、渋谷で稼いで渋谷で使ってた」


(文責:遠山)


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