序文(下書き2)

マジカント4号 都市/革命

承前

 都市と革命について作品を集成するにあたって共同体の現在を考えたい。なぜなら都市と革命とは共同体の変革がもっとも端的に発現する場だからだ。その糸口に参考にしたのは社会学と読書会そしてSFである。以下、順を追って詳述していこう。

1 共同体の現状

 宮台真司『日本の難点』(幻冬舎新書、2009)において元来の共同体の役割は「他者の存在ゆえに──他者とのコミュニケーションの履歴ゆえに──自分は揺るぎない」チャンスが得られる場とする。比して宮台は現代における人間関係のフラット化に首肯する。だがそれは都市と情報の流動化によって当然発生したことなのだと宮台は釘を刺す。関係の流動化は共同体での個人の代替可能性を加速させる。宮台は近代や村社会の代替不可能性の窒息しそうな関係を緩和させるものとしてフラットな関係の代替可能性を否定しない。むしろ代替不可能性の物語化に抵抗する手段として代替可能性を積極的に肯定する。だが代替可能性には「シーンの羅列」「コマーシャル」という負の側面があるとする。宮台は東浩紀らとのシラスの対話で「閉じられの開かれ」という提言をした。これはリベラルを「開かれの閉じられ」としたうえでの発言である。「閉じられ」とは代替不可能性つまりは「かけがえのない」関係のことだろう。いっぽう「開かれ」とはフラットな関係の代替可能性である。宮台は閉じられたシステムで開かれた関係を結ぼうとしているのだ。そうすることでリベラルの自由や平等を謳いながら窒息しそうな密な関係を迫る同調圧力から解放され、また軽佻浮薄で場当たり的な90年代の女子高生まったり革命やインセル的な関係にも陥らずに済むのだろう。とはいえ「閉じられ」の共同体はホモソーシャルやエコーチェンバーの内輪のりだと外野の目には醜悪なものに映るだろう。閉じられた共同体と外部の関係をどう風通しよく構築するか。その答えを本稿では前言したとおり読書会に見出したい。まず参照したいのは「闇の自己啓発会」である。江永泉、木澤佐登志、ひでシス、役所暁の四人からなるこの読書会は2018年の晩秋に産声を上げた。初回の課題図書はギャビン・ニューサム『未来政府』だったという。早川書房刊『闇の自己啓発』(2021)ではほかに木澤佐登志『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、梶谷懐/高口康太『幸福な監視国家・中国』、海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる──ルポ最新科学』、稲葉振一郎『銀河帝国は必要か?──ロボットと人類の未来』などを選書している。とはいえ読んでいるのは思想書やノンフィクションだけではない。『文藝』(2021年・春号)によるとオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』、村田沙耶香『消滅世界』、ジム・トンプソン『ポップ1280』、新庄耕『狭小住宅』、マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』といった広範囲な小説も取り上げている。
 実をいうと今年一月に「どくしょびより」という私が参加している読書会で大江健三郎『芽むしり仔撃ち』を読んだ際、「闇の自己啓発会」の「のれん分け」をしていただいた。このシステムは闇自己のメンバーに公認してもらうことで彼らの開設しているブログに自分たちの読書会の記録が転載されるというものだ。異なる読書会の間における交通・交換は非常に新鮮な経験だった。私はこれにホモソーシャルやエコーチェンバーなどの内輪のりに対する批判への抵抗を見た。しかしこの試みにも限界はあるだろう。なぜなら読書会の同質性と閉鎖空間でのコミュニケーションの繰り返しの回避のための外部に「のれん分け」の読書会が相当するとは必ずしも限らないからだ。外部とは木澤佐登志「さようなら、いままで夢をありがとう」(『文藝』同上)で示されたような「〈名前のない特性〉としての身体」を「神隠し」のごとく生起させるものなのだ。
 ところで私の父は裁判官を目指していた。いっぽう私は哲学者を志していた。この二つの夢は親子そろって挫折している。父は犬のように死んだ。千葉雅也『動きすぎてはいけない』でドゥルーズはライプニッツについてこう述べている。孫引きしよう。

 哲学者は、まだ《捜査官》ではない。経験論と共に、哲学者はそうなるのだ。また《裁判官》でもない。カントと共に、哲学者はそうなるのだ(すなわち《理性》の法廷)。哲学者は《弁護士》であり、神の弁護士である。彼は、神の《大義=理由》を擁護するのであって、それはライプニッツのつくり出した言葉によれば、「弁神論」なのだ。もちろん、悪に直面して神を正当化することは、いつも哲学の常套であった。しかしバロックは、長期にわたる危機の時代であり、もはや通りいっぺんの慰めでは役に立たなかった。世界の崩壊が起こり、弁護士はそれを、まったく同じ世界を再構築せねばならないが、別の舞台の上で、世界を正当化することのできる新しい原理に関係づけなければならない(そのため、法解釈が重要になるのである)。
『襞』(119ー120頁)

 父は弁護士を忌避していたようだ。私も弁護士を好きにはなれない。ドゥルーズの「神の弁護士」と実際の法廷の弁護士とは違うものだろう。「弁護士」を解釈しなおすこと。読書会のホモソーシャルとエコーチェンバーとは「法解釈」の欠如により生じると思われる。ドゥルーズは「遺伝とは継承ではなく裂け目である」という。木澤論考ではフーコーを引いて「欠如としての身体」を標榜していた。ドゥルーズとフーコーに親和性はあるのだろうか。遺伝や認識の裂け目を「欠如としての身体」で跳躍すること。同論考ではフィッシャーが「自分は何の役にも立たない、自分は何者にもなれない」ことに苦悩していたことが語られている。この存在の欠落感は「欠如としての身体」に通じるのだろう。「〈名前のない特性〉を作り出すこと」。フーコーは人生そのものが作品だという。私は40代にして親に頼ってばかりのなまけものだ。完全なる経済的自律はしていない。私は何者でもない。とはいえ労働者であるからして何者かを名乗ってもよいのだろうか。資本主義的労働のみをアイデンティティとする社会が息苦しい。
 私は五体満足であるが社会的に「欠如」している。庵野秀明の父は身体に欠損を抱えていた。少年の庵野は不自由な父の代わりをしたという。「欠如」を互いに補うこと。これが社会の真の姿であり人間関係の代替不可能性ではないのか。「欠如」は代替可能な関係の坩堝に逆巻いている。親子という代替不可能性の関係に生じた「欠如」を代替可能性な関係に補完してゆくこと。読書会の関係とはこうあるべきだろう。参加者の持ち寄った「欠如」を伝染させ、感電し、自分自身が「外部」になること。決して声高に「欠如」を糾弾するのではない。自身の知識や審美眼を誇ることでもない。「欠如」を共に内包する他者になること。サークル内あるいは個人内での外部であり続けるために本を読むこと。その架橋が読書会の間での真の「のれん分け」の端緒になると思う。『闇の自己啓発』で江永泉は大塚英志を引いてこう述べる。

 個々が意見をやりとりするインフラとしてのインターネットは整備されたけれど、そこでどう意見を交わして議論して合意を形成するか、そういう技術は洗練されていない。それが日本の現状での課題ではないか、と。
(38頁)

 旧来のインターネットの地球村(グローバル・ヴィレッジ)から新生のインターネットの電脳都市(サイバー・メトロポリス)へ。もちろんリアルとネットの相互換性は担保すべきだろう。いうならば私は本とインターネットを通して「神隠しの弁護士」になりたいのだ。何者でもない哲学者として。未知なるユートピアではない内なるユートピアを作り出すこと。では果たして欠如の共同体によって自己の存在を外部ー他者のユートピアにできるのだろうか。再び問う。共同体の同質性、閉鎖性はいかに脱すればよいのか。共同体に出口はあるのか。そもそも共同体は持続可能なのか。それを解き明かすためにも次章で共同体の歴史を踏まえたいと思う。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?