『REBOX2』序文(後半)

(承前)

『虎の尾を踏む男達』に戦後の天皇制保持と経済繁栄を読み取るのは容易い。むしろ私は内務省による上映禁止とそれを抑圧する側のGHQが解放したという端的事実の倒錯関係に重きを置きたい。太平洋戦争時の映画を語るうえでとかく俎上に載るのは1943年の政岡憲三『くもとちゅうりっぷ』(松竹動画研究所)と1945年の瀬尾光世『桃太郎 海の神兵』(同上)だろう。そして比較対象として敵国アメリカの1940年製作『ファンタジア』(ディズニー)を挙げ、両国の国力の違いを分析する論説やドキュメンタリーは数多あると思われる。では黒澤明とジョン・フォードの戦中・戦後の歩みについて比較したものはどうなのだろうか。
 ところで暗い時代の映画的な逸脱に私はクリント・イーストウッドの仕事を重ねてみたい。とくに焦点を当てたいのは2006年製作の『父親たちの星条旗』だ。本作はジェームズ・ブラッドリーとロン・パワーズによるノンフィクション『硫黄島の星条旗』を原作にポール・ハギスらが脚色したイーストウッドの監督作である。題材は1945年度ピュリツァー賞受賞作のジョー・ローゼンソール「硫黄島」だ。この写真は「太平洋戦争末期、日本本土から約1100kmに位置する戦略的要衝硫黄島をめぐり、日米間の激しい攻防が繰り広げられた。アメリカ軍は1945年2月19日に上陸を開始、約一か月続いた戦闘で2万3000人の日本軍守備隊が全滅した。しかし、苦戦したアメリカ軍の人的損害はそれ以上に甚大であった。」(『20世紀の証言ピュリツァー賞写真展』)という戦場で撮られたものである。そしてイーストウッドの映画で語られるのはそのうちの一枚「摺鉢山に掲げられる星条旗」(Old Glory Goes up on Mt.suribachi.)だ。この写真が日刊紙の一面を飾るや全米全土は熱狂の渦に呑まれた。戦況は悪化の一途を辿っていたようだ。国民の士気も落ちていた。そんな世論は一枚の写真で被写体の六人の兵士を一躍「英雄」に祭り上げた。レイニー、アイラ、ドク、マイク、ハーロン、フランクリン。このうち上記三人が生還し残りの三人は硫黄島で戦死する。そしてハーロンの代わりに写っていないはずのハンクが写っているとされ旗を掲揚したものとして英雄となる。だがハンクも戦死しており残酷な真実として「摺鉢山に掲げられる星条旗」は戦闘開始五日目に差し替えられた旗つまりは「第2の旗」であってハンクこそが「第1の旗」を掲げたものだった。ところが軍部、政府、国民、メディアはその事実に拘わらず写真の兵士たちを「英雄」として扱うことをやめることはない。やがて三人は戦死者の影にそれぞれ心を乱されてゆく。さらに事の真相が明るみに出るのは戦後数年が経過したあとだった。
 蓮實重彦は中原昌也との対談でドク役のライアン・フィリップについて以下のように述べている。

 監督も「画面を背負え」とは全く言ってない。事実背負ってもいなんだけども、画面の中にすんなり自分を位置づけちゃう希薄な存在感が不思議な魅力になっていますね。
(『映画の頭脳破壊』、10頁)

 アメリカのショウ・ビジネスによるスター・システムから逸脱する存在としてのライアン・フィリップと軍部、政府、メディアによって国民的英雄に祭り上げられるドクの非対称性。ドクは結婚後、葬儀屋に就き経営者となり一生を閉じる。いっぽうレイニーも結婚したのち用務員になり、アイラは農場で働く。時代的な特異点からこぼれ落ちるものたち。それでも映画はいつかのように「残酷な楽観主義」で幕を閉じる。蓮實は近著『見るレッスン』でこのように述べる。

 映画を見る際に重要なのは、自分と異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるはずなのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かわざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。
(11頁)

 最後に私の「残酷な体験」として1987年製作のチャン・イーモウ『紅いコーリャン』を挙げる。本作は私の地元の県立図書館で昨年たまたま借りて観たものである。莫言の原作は長らく積読のままだが映画は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1994‐1995)の間宮中尉の皮剥ぎを彷彿とさせる。こっちの長篇のほうは読みさしだ。執拗ではあるが再び蓮實に立ち返る。同掲書において2019年7月18日の京都アニメーション放火事件に言及する蓮實は京アニの視聴者を批判している。蓮實の真意は京アニファンが当該のアニメに対して「救い」を目的としたためである。それは先に引用した「残酷な体験」と比較検討される。私にとって京アニの『けいおん!』はあきらかに「自分と異質なもの」であり「残酷な体験」といわざるをえない。いうならば『紅いコーリャン』と等価なわけだ。私にとってこれらの「残酷な体験」は「救い」だった。この点に関して蓮實の「歴史的で記憶的な映画産業の文化の中に生まれた世代」との断絶を覚える。 
 以上「理想の時代」の『虎の尾を踏む男達』(1945)、「虚構の時代」の『紅いコーリャン』(1987)、そして「不可能性の時代」の『父親たちの星条旗』(2006)を「反映画」として見てきた。映画というリアルとフェイクが綯い交ぜになったものを過剰に摂取すること。一過性な映画の見方から遠く離れて別角度から非歴史・反記憶の「反映画」に光を当てること。とはいえ人種の問題に限っても20世紀の戦争映画を語るうえでアフリカ、アジア、アラブ、オセアニアなどにルーツをもつ戦争犠牲者への視線が足りなかったであろう。
 アレクサンドル・コジェーヴ『へーゲル読解入門』においての戦後日本のスノビズムとは「形式を内容から切り離し続ける」ことだった。それは「作品から意味を受け取ったり、また社会的活動に踏み出したりするためではなく、純粋な傍観者として自己(=「純粋な形式としての自己」)を確認するためである。」(『動物化するポストモダン』、旧版、100頁)ということだが、2020年から2045年の次の時代を迎えている現在、「反映画」の視座に立つことでスノビズムを棄却し停滞した世界に「革命の時代」を到来させることは笑劇だろうか。近い未来、世界的に沖縄・原爆、中国・東南アジア戦線、韓国併合、シベリア抑留、ノモンハン事件などの映画がもっと撮られてしかるべきだろう。つくづく若松孝二が2012年に急死したことが悔やまれる。しかし私は山崎貴『永遠の0』(2013)、塚本晋也『野火』(2014)、片渕須直『この世界の片隅に』(2016)をまだ観ていない。宮崎駿『風立ちぬ』(2013)は傑作だった。
 本稿では映画を「残酷な楽観主義」「反英雄」「救い」とした。接続と分離の切換ではなくいつもどおりぼんやりと映画を見るように物事を語れないものだろうか。ずいぶん長くなった。その試みはさておき次に続く文章にそろそろ場を譲りたいと思う。

2021年6月14日
沖鳥灯


この特集は『REBOX2』として9月26日の文学フリマ大阪で刊行予定です。9篇の映像に関するエッセイ、論考、小説など多彩な構成になるだろうと思います。どうぞご期待ください。

(「序文」前半は6月12日の記事にあります)

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