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歴史に学ぶ。

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司馬遼太郎さんの名著『国取り物語』『新・太閤記』『関ヶ原』『城塞』を中心に、歴史上の出来事や、歴史上の人物の考え方・生き様から、感じたことをつれづれと。
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2019年7月の記事一覧

人間、そんなことはわかる。

人間、そんなことはわかる。

信長
「俺を殺そうとしている
やつがいる」

濃姫
「うそ!」

信長
「いや、そういう気が
するだけだ。
ただ、おれは馬鹿に
されている上に、
きらわれてもいる。
人間、そんなことはわかる」

濃姫
「まあ」

(司馬遼太郎 著
『国取り物語3』)

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信長の言う通り、
人間、わかります。

私は、今

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自然法爾(じねんほうに)。

自然法爾(じねんほうに)。

庄九郎
「そうみえるなら、
不徳のいたりだ。
人間、善人とか悪人とか
いわれるような奴に
おれはなりたくない。

赤兵衞
「自然法爾のなかに。ーー」

赤兵衞も寺男だっただけに、
そういう哲学用語は
ききかじっている。

宇宙万物の
動いている根本のすがた、
といったような意味である。

真理といってもいい。

(司馬遼太郎 著
『国取り物語2』)

ーーーー

真理の中で、
いまの

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耳に入らない“たち”。

耳に入らない“たち”。

ここが、庄九郎的人間の
特徴ともいうべきものである。

庄九郎の同時代でも、
人は「蝮」といって
かげで悪口をいったが、
庄九郎の耳には入らない。

人間の悪口が、
耳に入らない
“たち”の人間なのである。

すくなくとも、
人が悪口をいっている、
などカンぐったり
気にしたり
神経を病んだり
しない“たち”の
人間なのである。

だからこそ、気にしない。

見えざる人の悪罵を

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馬鹿も集団になると力。

馬鹿も集団になると力。

(こんどこそ、かなわぬ)
正直な実感であった。

(すこし、やりすぎた)
後悔はしないが、
このところすこし
図に乗りすぎた
ようであった。

(馬鹿も集団になると力だ。
それをわすれていた)
さすがの庄九郎も、
この集団にはかなわない。

(司馬遼太郎 著
『国取り物語2』)

ーーーー

確かに…。

なんじゃそりゃ
と感じる相手でも、
大人数になると
手に負え

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委ねる。

委ねる。

頼芸
「されば庄九郎、
 人間は死ねばどこへゆく。
 ひとことで教えてくれ」

庄九郎
「そのこと。
 坊主にまかせる。
 任せて考えぬ、
 これがサトリでござりまする」

頼芸
「 任せるだけか」

庄九郎
「その“だけ”に、
 人間到達できれば、
 もはや大覚者でございます。
 死は坊主にまかせる
 まかせて楽しく生を送る、
 それが達人の生き方
 というものでござりましょう」

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