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1、シャープな日々⑨  “AA” って何? 経験は必ず活かされる

1、シャープな日々⑨  “AA” って何? 経験は必ず活かされる

教育熱心だった母は、いくつになっても跳ねっ返りな娘を、支配したがった。しかし、ここまで、必死に自分の道を模索し続けて来て、また、一歩踏み出せるかもしれないチャンスでもあった。
産経新聞社との面接は進んでいた。何も知らずに合格電話を受けた母。機嫌を損ねて、人事部からの電話が“なかったことに”されてしまっては、今までの努力が無駄になってしまう。あれこれ、思いを巡らせた。感情派の自分が、理論派で冷静な、しかも自分よりはるかに頭の出来が良い母に、自分流で熱くなって語っても、勝てるわけがない。何とか冷静に。冷静に、どうしたら、この関所を突破出来るか、物凄く真剣に考えたと思う。が、正直、いったい最後は、どうやって納得させたかが、残念ながら、記憶に残っていない。

多分「どうせ、最終面接まで行くわけはないのだから、やるだけやらせて」などと、陳腐なお願い方法しか思いつかなかったかとは、思うが。
という訳で、筆記も通り、面接も進んで行った。

面接と言うのは、やはり集中度が物凄いからか、比較的内容は覚えているものだ。
それが、何次面接だったかは忘れたが、報道写真のパネルが何枚か用意されていた。
その中から面接官がアットランダムに1枚引っ張り出し、写真の状況を説明しろ。という課題が出された。私に提示されたのは、昭和末期当時、硬貨が旧式のモノから、新しいものに切り替わる時期だか、500円玉が出回り始めた時期だったのか、銀行の店頭で沢山の人々が、硬貨を持って嬉しそうにしている様子だった。全く興味のない案件だったので、しどろもどろになり、何をどう説明したのか、苦しくてクラクラして、もうこれはダメだと、部屋を退室した感覚だけが生々しく、今も残っている。
だが、何故だか通った。今でも、謎だ。

次の面接ほど、あの日経マグロウヒル社での面接の経験に感謝した時はなかった。
そして、してやったりと、面接後はほくそ笑んでしまったりもした。

面接での質問はこうだった。
「君は仕事を続けながら結婚して、更に続けて、海外特派員を命ぜられたら、どうする?」

キタ~~~~~!!

ここでの模範解答は、これで間違いない。

「ハイ!!社命ですから、迷うことなく、現地に飛んで、特派員として仕事を全ういたしたいと思います」

キッパリ!!

面接官は、いつも複数人であったと記憶するが、この何次面接か忘れたが、最終近くで、以前、女性広報担当者の会の講師としてお世話になった経済部M記者がいたことは、覚えている。そして、その後、社内で顔を合わせた時と、あ、飲み会だったかもしれない。が、「私があの時、採点表に君の評価を“AA”と記したからねえ」と、言われたものだった。
面接官は、常に3人以上の複数人だったし、自分は産経を受ける際にI記者に、コネで入れてくれと全くお願いしたこともなかった。そもそも、女性広報担当者の会の講演会で1度会ったきりだった。

その後、何回面接があったか、母の対応がどうだったかなど、全く記憶に残っていない。
が、晴れて、私は合格通知を受け取ることが出来た。
自分でも、これは奇跡だと、ぶっ飛んだ。

シャープに入社した初年度から、当時の業務内容を向上させようと努力し続けた。そして併行して、その一方でこのままでは終わりたくないと、社内での学びも続けいう転職活動にも取り組み、更には、自分の価値を高めるために、あらゆる勉強も続けていた。
桑沢デザイン研究所での2年間の学びも修了まであと3カ月。これは、自分でも本当に惜しいと思った。
が、卒業間際の1986年(昭和61年)12月末日、大学卒業後、シャープにお世話になって3年9カ月で、同社を後にした。

次の職場が、新聞社と話すと、シャープのどの部門に挨拶に行っても、皆、驚くほど祝福してくれた。最後には、取材で上京して来ていた社長や、尊敬するデザイン本部長にも報告出来たように記憶している。
本当にありがたいことだった。

年が明けて、新年の1カ月は充電のため休んだ。
母と久しぶりの海外旅行で、ハワイに二人で出かけた。母は、初めてのハワイだった。戦争の記憶に繋がると、当時、父がハワイやグアム・サイパンに旅することを極端に嫌っていたためだ。旅行好きな仲良し夫婦であるのに。

この後、退職までの8年間近くは、新婚旅行以外は、旅行らしい旅行には出かけなかった。旅行よりも、学生生活よりも本当にエキサイティングな時間、仕事が私を待ち受けていたためだ。休んでいる暇なんて無かった。
自分は、学生生活を相当充実して過ごしたと思っていて、これを越える時間は来ないと、当時考えていた。少なくともシャープの3年9か月間はそれを越えなかった。

が、産経での時は、自分の人生でかけがえのない8年間となった。あっさり最初の数日で、それは越えていった。そして、今の生きる原動力、術の基礎がここで築かれたと言っても、過言ではないと。

また、その時間を迎えるまでの、シャープ時代の模索する姿勢も、それはそれで今思えば愛おしく、その頑張りがなければ、次のステップは無かったと、確信している。これらを糧に、次なるステージへと。

母はもう赤鬼ではなく、この後、私の一番の理解者、そして一番の愛読者となってくれた。私が激務の中、子供が出来ても仕事を続けられたのは、全て母の協力があったからこそ。

なくしては、微塵もあり得なかった。

<写真キャプション>
ハワイの思い出は、本当に沢山出来た。特にカハラヒルトンでのディナーショーは大喜びしてくれた。母との二人での海外旅行は、シャープに勤めて2年目のGWのヨーロッパ旅行以来だった。メーカーは、年末年始、GW、お盆と工場を止める企業が多く、シャープも休みはしっかり取得でした。
産経に移ってからは、日曜日以外、休みらしい休みは、文化部に妊娠を機に異動するまで取れなかった気がする。それでも、毎日が刺激的で全く苦にならなかった。若いって、スゴイ。。。

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