見出し画像

2、駆け出し新聞記者のイロハ①  いきなりファンファーレ

2、駆け出し新聞記者のイロハ①  いきなりファンファーレ  

苦節3年と9か月を経て。
とは言っても、今思えば仕事もレベルアップしながら、多くの学びもあり、素晴らしい仲間たちと過ごしたこの日々も永遠。
この時間があったからこそ、次へのステップが軽やかに踏み出せたと信じている。

1987年(昭和62年)2月3日、私は東京・大手町の産経新聞社の門をくぐった。もちろんオフィスビルだから、門など無かったが、まあ、気持ちを表現するとそんな感じ。
当時はまだ、カタカナでサンケイ新聞社。社が入っているのもサンケイビルだった。その3階に編集局はあり、初出社した。編集局の部屋の入り口には、警備員が常駐していた。初日は、最初に人事部を訪ねたのか、編集局長のところに直行したのか、全く記憶にないが、気が付けば、社会部の原稿台の席に座っていた。

何もかもが驚きだった。
まず、自席がない。ロッカーもない。机が、横長で、ダーっと横並びに、対面で座るような作りになっている。間には、二段の小高い棚が繋がっていて、上段にはびっしりと隙間なく電話機が並び、下の段には、山のような原稿用紙が重ねられていた。原稿用紙は、4枚刷り、2枚刷り、ペラ原と呼ばれる1枚刷りが用意された。マスは大きくB5判150字詰めだったと記憶する。
原稿はここに、鉛筆か黒ボールペンで書き入れる。クッキーなど菓子の空フタがない空き缶のような缶にBの深緑色のトンボ鉛筆、BICの黄色い?山吹色の軸の黒ボールペン、デスクが原稿に赤字を入れるための赤鉛筆、赤ボールペンなどが溢れんばかりに詰め込まれていた。原稿用紙は複写なので、消しゴムは使わず、書き間違えるとその上に2本線を引いて、修正した。

その日、社会部に配属されたのは、私と、もう一人、東工大出身で理科の教師をやっていたN君。同じ年だった。2人で、その日の夕刊作りの当番デスクのすぐ隣に座らされ、雑用を早速に担当した。あ、間に“学生さん”と呼ばれるアルバイトの人間が、挟まっていた。
夕刊作りは、早朝から、前日の朝刊作りを担当したチームが、宿直部屋で寝て、また担当。10時ころから出社してくる夕刊班と交代する。一カ月単位で、シフトが組まれるが、その日の紙面作りの担当デスク、サブデスク以下、兵隊が5~6人、中堅から若手までバランスよく配置される。
そのメンバーが、原稿台、全部で8席ほどだったか、そこに座り、入って来る原稿、情報をさばいて紙面を作り上げていく。
私たち新人が担当するのは、
1、デスクがリライトした原稿を、複数枚なら剥がして、ペラ原ならコピーを取って、整理部の担当記者にそれを渡すこと。
2、記事の写真を、写真部に受け取りに行ったり
3、FAXでどんどん入って来る共同電(共同通信が配信するニュース)を、ニュース毎に切って、サブデスクが読みやすくして、サブデスクに渡したり、他の部に相応しいものは、席が離れているその部に届けに行ったり、
4、慣れて来た頃には、“原稿取り”と言って、外に取材に出ている記者が現地から電話で送って来る原稿を、書き取る仕事も加わった。
5、刷り上がって来るゲラのコピーを複数枚取って、全員がチェックしやすいように配るのも仕事、などなど、本当に種々雑多、まだまだあった。ぺえぺえは、このくらいだっただろうか。
が、初日だったN君と私はそんなイロハのイ、を、先輩記者でなく、アルバイトさんに教わった。その紺のウィンドブレーカーをいつも着ていた彼、何か落ち着いた風情だなあ、と思っていたら、後にわかった事だったが、何とお坊さんだった。数名、バイトはいたが、彼が出て来ることが、一番多かった。

この日は、通常の夕刊時間帯より、慌ただしかった。(と、わかったのも、働き続けてわかったことだが)
まず、部屋中にピーポー、ピーポー、ずっと共同電のニュースを知らせる音が鳴り響いている。シャープの広報室でも、共同電は取っていたが、こんな音は全くしなかった。
こんな風に、鳴らすことが出来るんだなあ、と、感心した初日だった。
N君と2人、コピー取ったり、整理さんに走ったり、でも、右も左もわからず、席についていることが多かった。私らの中途採用の同期は1月入社組と合わせて7人だった。社会部3人、経済部2人、外信部1人、写真部1人と配属されていた。

それにしても、ピーポーピーポーがやたらと多い。その原因が、やっとわかって来て、少し余裕が出来て来た頃、先輩記者が状況を教えてくれ始めた。

が、その瞬間、ファンファーレが鳴った。
高らかに鳴り響く鐘の音のようにも、聞こえた。

自分の記者時代にも、そう何度もこのファンファーレを聞く事はなかった。
それほどニュースバリューの大きな情報にしか、共同通信も鳴らすことはない。

「おおおおおおおっ」

編集局内が、唸るようにどよめいた。

〈写真キャプション〉
産経新聞社時代の記事は全てファイルしてあります。その1ページ目がこちら。当時、SUNDAYモニターという日曜版の短信ご意見コーナーがあり、電話取材したものをまとめて、掲載していました。今見ても古臭くないテーマもありますね。
国鉄は流石に、昭和を物語ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?