その行為は誰のものか?

僕は以前「世界に対していかに貢献すべきか」を考えた時、
人類の繁栄、社会の発展に全く興味がないことに気がつき途方に暮れたことがあります。

思い浮かぶことすべて、人類や社会のなにがしかに関与していて、
思索がある一定の深さまで到達すると、
「これは僕のやることではない、だってこの営為の結果に全く興味がないのだから」という結論が出てくるんです。

僕は生きていくために興味のないことしかできない、と落ち込んだのを覚えています。

一生懸命考えるということを行っているうちに、いつの間にか「世界と私」という構造で思考を巡らせていて、盲目的にドツボにハマっていたのですが、
「世界=私」というもう一つの捉え方を思い出したときに、在るということを受け入れることができました。
存在の仕方というのは、常に2つの側面があるので忘れないようにしたいものです。

何のことはない、西洋哲学と東洋哲学の往来を忘れていたんですね。
梵我一如梵我一如。

気をつけていても「偏り」に陥ってしまう時はあるものです。

ここからが本題。
あらゆる行為は誰のものなのか?というものですが、
自分の行為(仕事や社会活動)が、いったい誰のものなのだろうか?と考えたことはありますか?

この場合の行為とは、ある程度構築されたものを指します。
意志を持って、理由を持って行っている行為。考えてやっていること、とも言えます。

もし、その行為に対して、肯定しかできないなら、
それはあなた自身のものではないかもしれません。
教育や親しい誰かの洗脳である可能性が高いです。

肯定もできて、否定もできる、その上で行っている行為は、
自身が構築した、自身の行為と言えるような気がします。

「やらずにはいられない」

そんな行為は、自分のものと言えるのではないかと考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?