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【山笠記事4】津屋崎祇園山笠の現代の役割って??①

みなさん、こんにちは。津屋崎祇園山笠振興会です。

今年はなにもないからこそ思いますが、
山笠準備中のいろんな揉め事は、お互いをよく知るための機会なんだなーと。

お互いに真剣にやってるから揉める。
その場では、男の意地と意地がぶつかり合うから激しくなったりすることもあるけれど、あとから振り返って「あいつも真剣にやってるからだよな」と思うといい仲間なんだなと思えたり。

今年は喧嘩することもございませんが、
この機会に津屋崎祇園山笠を知っていただこうと、5本の記事を投稿しています。
今回は、4記事目
お時間あるときに「山笠記事1 はじめに」からお読みいただけますと幸いです。

さて、今回は、「津屋崎祇園山笠の現代の役割って??①」です。
5本目の記事と二部構成になっております。

この記事では、山笠の役割を考えるために、お祭りとは何なのか?を少し整理してみます。

津屋崎祇園山笠は、もちろんお祭りです。
言うまでもなく、博多祇園山笠も、八坂神社の祇園祭もお祭りです。

私たちは、この機会に集い、何やら真剣にやっています。

この、人を駆り立てているお祭りって何なんでしょうか?

1,お祭りってなに?

「お祭り」って言われてパッと思い浮かぶ催しって、二種類あると思います。
神様が関わっているか、そうじゃないか。この2つです。
山笠も祇園祭も、もちろん神様が関わっています。

ただ、想像で話しを進めるのも良くないので、まずは、きっちりしている事典から引用します。

祭りとは、”集団による儀礼行動の一つ。本来は原始・古代宗教の集団儀礼を総称し,現代では文化的に一般化されて,祝賀的な社会行事を呼称するのによく使われる言葉となっている。日本の祭りは伝統文化として重要であり,神社神道では今でも祭りを中心にしているほどだが,世界の宗教文化史上にも注目すべき社会現象である。日本語のマツリは,マツル,マツラフという動詞で上位の者に奉仕する意味の語の名詞形とみられる。語源的にはマツとマチは同根で,見えないものが見える場所,接触しうる場へ来るのを歓待する意味をもつ。”(世界大百科事典 第2版)

とのことです。

最初の二文は、思っていたとおり、といったところでしょうか。
「人が集う催しで、元々は宗教的なことだったけど、最近はそうではないイベント的なこともお祭りです」ということですね。

語源として「上位の者に奉仕する意味の語」ということもわかりました。

そして、最後の一文、これは大事だと思うんですが、
「見えないもの(=上位のもの)が見える場所,接触しうる場へ来るのを歓待する意味をもつ。」というのは、私たちもよくわからないけれど大切にしていることです。

山笠で言えば、
山笠を建てて、お祓いや御神入れなどの手続きを踏めば、見えないけれどそこに神様が降りてきて、きちんと山笠を実施しないといけないし、ちゃんとやれば無病息災が叶うと感じられる、という感覚でしょうか。

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この感覚は大切にしなくてはいけない、という暗黙の了解があります。

おそらくどのお祭りもそうなのではないでしょうか?

多くの場合が、古事記・日本書紀(以下、記紀と略)の物語や民俗信仰をモチーフとして、ご利益が設定され、一連の行程を執り行い、目に見えない神様を奉ることで、祭りが完結し、ご利益が得られると考えられています。

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ですので、すごく簡単に言ってしまえば、
当たり前のことでもあるんですが、「神さまを奉る(たてまつる)こと」が、祭りであると言えそうです。

私たちは見えない神様を信じ奉る方法として、祝詞を捧げたり、神輿を担いだり、山車(山・鉾・屋台)を使ったりしているのです。

そして、それを行うことによって、健やかで豊かな人生を手に入れようとしています。

□ 余談 神輿と山車(だし)の違い
神輿:神様の乗り物で御旅所などへの移動用です。神社から神様が乗るので、人は乗ってはいけません。(八坂神社談)
山車(山笠含む):綺羅びやかに、楽しそうに神様を饗すためにあります。なので、人が乗っても問題ありません。ちなみに神様は、山車や山笠のてっぺんに降りてくるとされています。これは、山頂に神様が宿っている、という古い考え方から来ているそうです。

2,「神さまを奉ること」との距離感

ここまですごく当たり前なことを書いてきました。
お祭りを見ていくと、やはり、目に見えないコトや力、つまり神様という存在が背景にあります。

それを信じて行動すれば、豊かに、健やかに過ごせるということですよね。

でも、昔と今は、価値観や出来事に対する理解が違います。地震や豪雨といった人間の力ではどうしようもないことが起こっても、「神様の怒りが」などとは思わず、科学的に理解しようとしますよね。

それに神社にお参りに行く機会も減りましたし、お家の中に神棚が無いことは普通。
柴や榊を代えるなんてことも、おばあちゃんの家に行かないと目にしない世の中となりました。

実際、これを読んでいる多くの方も、

「そういう古めかしいことは、信じてない訳でもないけど、信じている訳でもありません。だって迷信?といったら悪いかもですけど、昔のね。あれですもんね。」

と感じておられる方も多いのではないでしょうか。

実際に、津屋崎祇園山笠を執り行っている私たちも神様を信じていない訳ではないですが「生粋の神道信者」というわけではありません。
信じているようで信じてない。信じてないようで信じている。
これは日本人の良さでもありますよね。柔軟さや、感性の豊かさにも通じているのではないでしょうか。
神社にお参りに行くけど、「神道ですか?」と聞かれたら「いえ、そういうわけでは。」と答えるのと同じだと思います。

でも、私たちは、このお祭り:津屋崎祇園山笠をとてもとても大切にしています。

祀っている素戔嗚尊がいるとか、いないとか関係なく、これを続けることには価値があると信じて、続けています。

これはもしかしたら、津屋崎祇園山笠が始められた時とは、捉え方が異なるのかもしれません。
でも、私たちは、このお祭りを通して、関わる人々が健やかとなり、人と人のつながりが豊かになっていくと信じて続けています。

最後の記事では、そのことについて書こうと思います。

【山笠記事5】  津屋崎祇園山笠の現代の役割って??②

をお楽しみに!


参考文献
世界大百科事典 第2版
日本の祭り解剖図鑑 エクスナレッジ
日本の祭りがまるごとわかる本 晋遊舎



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