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『悲しみよ こんにちは』フランソワーズ・サガン(訳 河野万里子)、読書メモ

1954年出版。作者のフランソワーズ・サガンはフランス人で、当時18歳。私が読んだのは新潮文庫のもので、200ページに満たないくらいの量。(※ネタバレ注意です)

あらすじ

遊び人の父・レイモンと、その父にそっくりの娘・セシル。セシルが17歳の夏、これまで女性をとっかえひっかえしてきた父は、突然婚約者を連れてくる。婚約者のアンヌは、父娘とはまったく正反対のまじめでエレガントな大人の女性。

これまやりたい放題に暮らしてきたセシルにとって、知性をそなえたアンヌは魅力的な女性である一方、かなり鬱陶しい存在。

セシル怖い、けど…

アンヌ視点で読むとホラーだよな、と思ったのは私だけですか…?

遊び人の父に似て遊びまくっている17歳のセシルに対して、婚約者のアンヌはこれから母親になる者の責任からか、しっかり勉強しなさいよと根気よく言い聞かせたりなんだりするのですが、セシルはまったくいうことを聞かない。

それどころか、家では勉強しているフリをしながら、父とアンヌを別れさせようと裏で画策を……て、これってなんというかホラーの展開でよくあるやつですよね…?

ただ、セシル視点で語られる本作においては、アンヌこそが闖入者であり侵略者。

考える自由、正しくないことも考える自由、ほとんど考えない自由、自分自身で人生を選ぶ自由、自分を選ぶ自由。〈自分である自由〉とはまだ言えない。わたしはこれからどんな形にでもなっていく素材にすぎないから。でも型にはめられるのはお断りという素材なのだ。

『悲しみよ こんにちは』(新潮文庫)p.73より

他人からの干渉というのは鬱陶しい、というよりむしろ怒りすら覚えるときがある。私のことには私にしか責任がとれないはずなのに、その私の選択に平気で干渉してくる人たちというのが、人生においては案外たくさんいる。

そうした人たちのほぼ100%が、他人へ干渉することの重大さなどには気づいていないし、まして他人に干渉している意識すらないことが多いのだから、さらに腹立たしいと思う。

この話をアンヌの視点で読んでしまうのも、年取ったからなのかな…。

アンヌは確かに正しいのかもしれない。若さは刹那的だ。でも、私は私の中にいるセシルの部分を忘れてはいけないと思う。


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