なぜ木登は怖いのか。

なぜ、木登は怖いのか。

木登りには、落ちる恐怖と折れる恐怖があります。後者に関して大抵の人は、枝の強さを過小評価してしまうので、木登初心者に対しては「落ちないことに集中せよ。折れると思うな。思えば落ちる。なぜなら、折れたときの怪我を最小限にする方法は、(落下姿勢を整える為に)自ら落ちにいくことだからだ。よほどの運動音痴でなければ、そのイメージは即、動作に変換される。」と教えます。

しかし、そう突っぱねては木登人口は増えません。もう少し寄り添ってみましょう。なぜ初心者は、枝の強さを正しく評価できないのか。

ここで「スパゲッティは、けっして2本に折れない」という有名な現象を参考にします。この現象は、乾麺の両端をもって力を加えれば、三分割して真ん中が弾け飛ぶ、というものです(たしか4本にも5本にもなります)。だれでも再現できるシンプルな実験ですが、物理的な証明はまだなされていないようです。

さて、木の枝が折れるとき、それはスパゲッティと同じ結末をたどると思われます(素材上そうじゃないような気もするが、まぁ力のイメージは同じだろう)。すなわち、枝の末端は下に、真ん中は上に弾け飛ぶ。そう、「真ん中」が弾けとんでいます。
にも関わらず、初心者のみなさん、幹と枝の接続がかぽっと外れてしまうような折れ方をイメージしていませんか?
それが恐怖の原因です。受け取った情報が、意識する箇所とマッチしなければ、怖いのは当然でしょう。見るべきところは、枝の真ん中だったのです。

あるいは、道具の扱いに長けた人は、そんなことはわかり切っていると言うかも知れません。たとえば、野球は、バットをしならせて球を打ち返しますね。勝手は同じにおもえます。木製バットとなれば、ほとんど木登と等しくみえます。
しかし、それでも、樹上に行けば接続点に意識を固定してしまうだろうというのが、私の経験から言えることです(私は野球部だったのですから)。
そもそも冷静に考えて、木製バットは木登と同じ条件ではありません。木登りは、人が動きます。つまり、野球のたとえに戻れば、初球バットを随分短く持ってファウル。次の一球、拳一つ分長く持ってファウル。追い込まれたバッター、めいいっぱい長く持ってまたまたファウルといったことをするのが木登りです。この過程で、バッターが気をつけなければならないのは、はじめに持った長さでのしなりポイントを引きずらないことですよね。持ち手を変えるたびに、しならせる場所を見つけ直す必要があります。
それと同じで木登りも、ほんとなら初めの感覚を引きずってはいけません。一歩踏み出すことに、新しく計算し直す必要があるのです。でも計算できるのは事後です。つまり、まず未知の一歩を踏み出さなければならない。しかし、その一歩が未知であることを受け入れられない。だから、(片手で安全を確保できる、はじめの一、二歩の範囲における枝の真ん中が接続点とほとんど変わらないというのも手伝って)接続点に意識を固定してしまいます。結果として、すでに述べたような実感と意識のギャップが生まれて、絶対的な恐怖が初心者をおそうことになるわけです。

中級者になると、恐怖の種類は変わります。
中級者は、未知の一歩を受け入れられるようになっているからです。未知の一歩を受け入れられるようになったのは、「先端の葉の総重量から考えるに、俺の体重を加えても折れやしない」と理性に従う勇気を振りしぼって(つまり感覚を騙して)得た感覚の経験から、法則を見出しつつあるからです(→いい忘れていましたが、初心者を脱するのに必要なのは、理性と勇気です)。スパゲッティの法則が科学で証明されていないことから、木登りのセンスも重力落下等々と比べてはるかに複雑であることが考えられますが、それでもなにかしら感じ取っているんです。つまり、初心者とっての未知の一歩は、中級者にとって推測可能の一歩になってきています。
じゃあ、相変わらずある恐怖の源はなんなのかというと、それは精度の話になると思います。初心者にありがちな、意識の置くところを違えたために生じる絶対的な恐怖とは異なって、あくまで、精度の「程度」の問題です。
たとえば、いままで登ってきた枝より長いとか、初見の樹種であるとかが、恐怖を覚えた瞬間として思い浮かびますが、推測の精度が不十分であることが問題ですから「不安」と言い換えたほうが適当かもしれません。
「恐怖」→「不安」になりました。だいぶ、いい感じですね。ネタバレをしてしまえば、達成感とは別に万能感とでもいえる楽しさが出てくるのがこの頃で、実はのんびり木登りも万能感の楽しみにあたるところもあります。それは、ぐうたら収束するポイントがたまたま不安になる場所であることも多いからです。結局のところここでも勇気をもって(今度は理性ではなく、感覚に従ってです)多少の不安も読み切っているふりをするのが、のんびり木登りの一側面であります。読みきる「ふり」が万能感を芽生えさせるんです。

さて、ここまでが中級者の話。私が話せるのは、ここまで! であります。以上が木登の恐怖についての考察です。

上級者になったら、恐怖のゆくえはどうなるのでしょうか。なくなってしまうのもまた恐怖ですねぇ。

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