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ヨソモノの自分が、地域を書いて伝える意味。


まちづくりに興味を持ったここ1年ほど、僕はライターとして自分の「書く」や「伝える」を地方で活かせないかと考えています。そんな中で迎えた2021年は、とてもありがたいことに、宮城でいくつかの案件に携わらせてもらいました。おもに移住に関するイベントでご縁をいただいた皆さま、また僕を抜擢してくださった皆さまには、本当に感謝しています。ありがとうございます。

そして恥を忍んで言うなれば、2022年も宮城でのお仕事をさせていただきたい気持ちがあります。そのためにも、より多くのイベントや地域に顔を出し、あらゆる人と関係性を構築したいとも思っていました。


しかし最近になって、地域にとって僕が「書く」や「伝える」をする意味ってどこにあるのだろう、なんて考えます。極端な話、大人も子どもも文章を使った表現ができる中で、わざわざ“ヨソモノ”の僕がそれをやる意味ってなんだろう、と。もうライター失格なのかもしれませんが、正直そんなことを考えます。

僕は基本的に、たとえば人に関する文章は、その本人が書いた方が説得力が増すと思っています。僕が「緑」に見えても、その人にとって「青」なら青です。極力、人を介さない方が純度が増し、より人となりが見えるコンテンツになるでしょう。


それでも、ヨソモノの僕がやる意味、あるいは僕に頼んでくれる意味はあるのでしょうか。ちょっと改めて考えてみると、今はふたつ思い浮かびました。

ひとつは、僕が文章を書くことを苦にしないこと。地域に文章を書ける大人は当然いますが、人によっては面倒に感じられることでもあるでしょう。それを、日頃から取り組んでいる僕がやる。これならどうにか、自分の意味を感じられそうです。
もうひとつは、地域の皆さんが、書くことを通じてコミュニケーションを促してくれていたこと。昨年の秋はまさに、取材というテイで宮城の地域をいくつか訪れることができました。これからUターンを考えている者として、より意味のある活動になったことは確かです。地域の皆さんとの関係性も深まりました。


この議題を思い浮かべるたびに、昨年お仕事を振っていただいていた宮城の皆さんがより尊く感じられます。ヨソモノの僕を積極的に巻き込んでくれて、本当にどうかしてます。(笑)そしてここまで書いて、あまりこちらが考えすぎてもよくないのかなとも思いました。まずは楽しく、地域の方々と関係性を築くこと。その先にライティングがあるのならば、僕は一生懸命に取り組むだけ。ひょっとしてひょっとすると、もっとシンプルに考えてみてもいいのかもしれません。


いつもいつもありがとうございます〜。