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“痛気持ちいい”感じ。


子どもの頃、両親や祖父母に肩を叩いてくれとお願いされた記憶がある。僕は彼らの背中にまわり、自分の両手を軽く握って、左右交互にトントンと。時になんとなく、揉みほぐしてみたり。子どもながらに、「気持ちいいねぇ」と大人たちが喜ぶ様子を嬉しく思った。

そんなに良いものかと、今度は自分が彼らの前に陣取ってみる。しかし、叩かれようが揉まれようが、ちっとも気持ち良くはなかった。むしろくすぐったくて、ちょっと気持ちわるいような感じもした。

あれから時が流れた今。ちゃんとその「気持ちよさ」を感じられる人間にはなった。あの時には分からなかった、“痛気持ちいい”感じ。両親や祖父母にやってもらうことはないが、それなりにオトナとなってしまったようだ。



TwitterやInstagram、あとはこのnoteなど、自分のSNSを読まれることって“痛気持ちいい”なあと最近思う。「読んでますよ」とか「あれ共感できます」とか、そう言ってもらえることは、エッセイ形式で心の中を露わにしている僕にとっては、ちょっと恥ずかしい。でも、それ以上に「読んでくれてありがとう」という感謝や嬉しさが、自分の中で大きくなる。

きっとこれも、子どもの頃には感じられていなかった感覚だ。作文の授業や卒業文集を書いた機会はあれど、学年全員が一斉に取り組むから特別感がない。読んでもらったり共感してもらったりする人の範囲が、あまりにも狭い。そもそも自分も含めて全体的に、言葉や表現のストックが少なく感動を覚えづらい。

そういった意味で、まずここまで継続して書けていることが、スペシャルなものになっている。知り合いの数が増えるほど、幅が広がるほど、いただける共感の声も格別だ。前述の通りちょっとした恥ずかしさはあれど、やっぱり書いたものを読んでもらえるのは嬉しいことである。


一応、今日でnoteの連続更新が750日を迎えたらしい。この先どれだけ続くか分からないけれど、いのちある限り、あるいは寝落ちしない限り(笑)、僕はこの“痛気持ちいい”感じを味わうためにも、ここに文章を記し続けるつもりである。


いつもいつもありがとうございます〜。