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19950117054652の衝撃

曼珠沙華です。

※今から書くのは1995年01月17日の話です。

※実際にあった事を当時、家族だった人から
 聞いた話も含まれています。

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心の準備は大丈夫でしょうか?

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それでは、ご覧ください。

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朝、目が覚めて家族が作った食事を待ちながら
テレビを付けた。

テレビでは、燃えあがって炎と煙の柱が
そこいらで上がっている映像が流れていた。

―阪神・淡路大震災。
―後にそう呼ばれる出来事でした。

その日は、偶々、家族の誕生日で
昨日、寝る前に色々と僅かながらのお祝いを
してあげようとして準備してあった。

『え、うそや・・・』

初めは信じられないようでした。

叔父の家族が兵庫県ですんでいると
聞いていたので、連絡しようと
電話をかけましたが

『電話が大変込み合っており
 繋り難くなっております。』

連絡が取れたのが、数日後でした。

叔父の話によると
・家は、無事だった。
・家の土台を頑丈にしてあったし
 土地自体も地震が過去になかった場所だったから。
・ただ、神戸に住んでる子供らとの連絡が取れない。

さらに、2、3日後に私の家に連絡が来ました。

叔母さんから神戸にいる親戚が
どうなったか、家族が尋ねると

(かなり長くなるので要約すると)
・その神戸に住んでた、いとこたちの家は
【神戸にあった家自体、屋根ごとつぶれて
家族4人のうち、妹さん以外は亡くなった。】
・喪主が、妹さんだけだったので
 誰か手伝える人を探してる。
・妹さんは別の親戚が引き取る事になった。
・妹さんは震災のショックで何も喋れなくなった。

私の家族は、その葬儀手伝いへ出かけていった。

その時の状況は、家族曰く

『アンタは、行かなくて正解やったわ。
 あの状況じゃ何も出来なかったやろうし。』

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ここまでの長文 読んでいただき

ありがとうございます。

また 次の投稿でお会いしましょう。


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