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思考の深淵の中で

なにか考え事をしていて、溢れるように思考が巡って、とても居心地がよくなってきて、どんどんどんどん思考の水の中に潜っていく。気付いたらこれを書き留めておかないといけない気がした。

なんのためかは全く分からないのだけれど、今この瞬間書いておかないといけない気がしたから書き始めた文章。とりあえず、見直したりせずに思いついたことをありのままに装飾せずに書き続けようと思ってパソコンを引っ張り出し書いている。これはそんな文章。

何を考え始めて、今こうしているのかは車で移動する5分程度前の出来事なんだけど、もう忘れてしまった。なんか僕は考えるのが好きだなーと思ってそこから始まったような気がする。考え事をするのが好きだから、何も考えることが無ければ、そのために考え事をつくるようにできている。そんな気がする。だから学生時代に倫理の授業が好きだったし、哲学めいたことが結構好きだ。漫画も考えさせられるようなものが好きだ。考えるためのタネを探しているんだろう。

だから飽きっぽいのかな?考えて考えて考えて、何となくそのことについて考えがまとまってきたら形が見え始めたらおもしろくなくなって、もっと思考を巡らせることができるようなネタを探してそっちにいっちゃう。そんな感じかな。僕の周りにもそれと似たような人が結構いるなぁ。

しかし、今の「原田光」の文脈にはそういう要素ってあまり表には見えない気がする。なんでなんだろう?代表的なもので言うと僕はスポーツのイメージが強い。そう言えば大学もスポーツと名の付く学科一択で探していた。なんでなんだろう。たまたま昔からサッカーをしていたからかな。意外と始まりなんてそっけないものなんだと思う。なんでも。マジメで几帳面で子育て熱心な母親の元に生まれたから、幼少期から僕ら兄弟はたくさん習い事をしていた。その一環で近くで出来るスポーツがサッカーだったから小学一年生の時からサッカーをしていて、その名残で小中高とサッカーをずっとやっていたら勝手にスポーツの人になっていった。普通はそれはあくまで趣味で仕事や将来というものは別を探すんだろうけど、僕の場合は好きなコト・打ち込んでることが仕事になるほうがいいに決まっていると子どもの頃からなぜかずっと思ってたから少年原田光はスポーツを選んだのかもしれない。そんなもんだ。

「打ち込んでた」と書いたけど、ふと考えると「打ち込んでた」とは少し違う気がしてきた。打ち込んでとか言うとあたかもサッカーが大好きでそれにやりがいを感じていてどっぷり浸かっているような気がする。でも別に僕はそんなんじゃなかったような気がする。今でも覚えてる。高校最後の大会かな?このままでは負けるという状況で僕は「ここで終わりたくない!」みたいな感情ではなく「あーやっと終われる。明日〇〇できるなー」みたいに考えていた。そのことがなんかずっと気になっていて今でもその情景を鮮明に覚えている。とりあえずチームメイトのみんなゴメン。なんでそういう風に思ったのか不思議だった。俺ってやる気なかったのかな?とか思ったことも何度もあった。こんな奴が「打ち込んでる」なんて言葉を使うのはおこがましい。でも、打ち込んでいた感じになって、大学までその分野に進学して、大学院までいって、仕事にまでして、さぞ「打ち込んでいた」感じだ。でも現実は違う。じゃあ僕はスポーツが大好きとかサッカーが大好きとかそういうんじゃない。そういう状態でもここまできてるということは人って案外分からないもんなんだろう。その時の置かれている環境や周囲の人、そんな外的な要因に大きく作用されるんだろう。

このことについて一瞬思考が巡ってなんとなくその理由みたいなもんまで到達できそうになったけど、ここに書こうと思ったらなんかイヤになった。思考は巡ってるけど書きたくはない。その解説めいたもんは面白くない。書いてもつまらない。そんな気がした。なるほどこういう思考もあるのか。おもしろい。この文章はそういうんじゃないって頭の中の自分が止めに入ったらしい。なんかコイツ可愛いな。振り回したくなった。そっちいくんかいみたいな。ということでいきなりそっちにいってみよう。

僕がお喋りなのはこの思考の「溜り」みたいなもんを吐き出したいから喋るような気がしてきた。溜まったものを出さないと次の思考で埋めれない。そんな感じ。水の中に墨を流し込むとブワァと広がっていく。徐々に深い深い方まで溜まっていく。僕が考え事をしている時まさにそんなイメージだ。どんどん深くへ潜っていく感じ。底に墨が溜りすぎたから一回綺麗にしたくてドバーっと水を流して捨てる。これが僕にとってのお喋りなのかも。捨て台詞ってこういうことだったっけ?なんか違うな。そしてまた新しい水の中に墨を流し込んでいく。その作業が好きなんだろう。じゃあこの考えることが仕事になればいいのに。なんだろうそれ。

僕の仕事は比較的に僕が喋って、僕がみんなの前に立って、イイ感じに立ち振る舞ってというシーンが多い。最近それがちょっとストレスに感じ始めたのもそういう本質的な自分に気付き始めたからかもしれない。もうちょっと考えていれる時間が欲しいんだ。だから子供たちと教室をする時も子どもと一生懸命遊ぶよりも一歩引いたところから、これがどうやったらもっと面白くなるのかとか、何であの子はこういう行動をとるのかとかを考えてる方が好きだ。イベントとかでも実際にそこに来た人と接するより、あれこれと考えてる方が居心地がいい。だからどんどん事務的な作業もしたくなくなる。でもチラシのデザインとかそういうのは考えることが多いからいいんじゃないかな?でも嫌いだな。できればしたくないな。どうやら「考える」にも種類があるようだ。

確かに考えたくないことだってあるし、考えたくない瞬間もある。そういう時はなにかに打ち込んだ方がイイ。だからゲームをしたり、ヒトと喋ったりする。考えなくていいように。いや違うか。ゲームしながらも考えるから考えることをそっちに向けるってことか。ラクな思考の方に誘ってんのか。

あっ。だんだん疲れてきたのが分かる。なんか筆が進まない。考えが進まないのかな?別のことを考え始めたな。コイツ。こうやって思考の水の中から出てくんのか。息継ぎみたいなもんかな?書き始めて20分くらいかな。たぶん。こんなもんか集中力なんて。

書かなきゃいけない!と思って迫られるように書いたこの文章。結局なんだったんだろう。「大切な何か」みたいなもんを書いた気もしない。ただただ考えていることを出しただけ。まぁそれだけでいいか。なんでもかんでも意味なんてない。正解なんてない。最近の僕のホットワード。

僕らは正解に憑りつかれてしまっている。正しさ、正解。そんなもんはさして重要じゃない。もっと曖昧さ不安定さ混沌としたところにこそ真理がある。そんな気がしてきた最近。だから必要以上にそこの考えを辞めた。そうすると面白いようにもっと考えるようになった。違う世界のことを見るようになって自分自身の違う一面も見えるようになった。考えるのを辞めたら考えるようになったり、正解を探すのを辞めたら、新しい正解っぽいことが現れたり。なんじゃこりゃ。

なんかいい感じで新しい思考が生まれ始めてさらに筆が進みそうな気がしてきたけど、やっぱり辞めたくなった。なんでだろう?不思議だ。飽きたわけではない。これはこれで楽しい。疲れたのかな?一旦息継ぎ。ふー疲れた。疲れたのか?ん?

おわり


※ここに投稿するためにアイキャッチ画像をつけないと!と思ってミッドジャーニーにタイトルを打ち込んでできた絵を画像にした。

in the abyss of thought(思考の深淵の中で)

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