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プライドとか矜恃とか

たぶん、今出てくることに意味があるから、なんとなく書きたくなったそのままに普段なら触らないことについて書いておく。

わたしは、自分はずっと間違ったプライドを大切にして生きてきたと思っている。そしてそれは未だ継続しており、日々その感覚を抑えながら生きているという自覚がある。

それは、「わたしがここにいることに意味を見出す」というプライド。

言葉だけを書くと持っていればいいプライドのように思うけど、これはわたしにとってはとてつもなく厄介なプライドで、意味を自分を創り出すというものだ。

意味をつけること、意味を持つことはとても大切なことで、それはなぜかというと、この世界に存在するものは全て意味があるし、意図/糸があって、繋がっている見えないネットワークの中にあるからだ。意味の無いものは存在しない。必ず、全ては関わっていて、それは人間のわたしは預かり知らない、でも魂は知っている(寧ろそっちより)の領域の話。

だけど、わたしが大切に育ててきた頑なに固執してきたわたしのプライドは、その世界との接続を拒むものだった。世界との接続を拒み、勝手に孤独を創り出し(実はそれすらもゆるされているのだけど)、それに気付かないように自分を操作支配してきた。幼少期、世界との(それは恐らく愛そのものとの、そして存在するというゆるしとの)繋がりを信じられなくなったなるという体験をすると決めて生まれてきたわたしは、自分がここにいる意味を自分で勝手に創り出した。

その自分は、他者の言葉を借り、編集し、ときに幼さゆえに疑いなく、ときには幼さを理由に自分を騙してそのままを無理矢理受け容れ、いわゆる《愛される他者が望むと決めつけた自分》を創り上げ、日々更新して生きていた。その頃は、自分を感じることを封印して、自分以外を感じることに全てをかけていたのだと思う。《愛される他者が望むと決めつけた自分》を徹底的に完璧に創り上げるためには、自分を感じること、そのままの自分がここにいることは許されないことだった。そんなこと感じていようものなら、自分が創り上げたい自分の完成度が如実に下がってしまう。それは許されなかった。だから自分と自分の中にあるもの、生まれてくるものは全て邪魔だった。自分を感じることは、そこに、自分の存在意義、最初に紹介した「わたしがここにいることに意味を見出す」というプライドを自ら崩壊させることに他ならなかった。

でも今、わたしはそのプライドをせっせと壊す日々を過ごしている。

それは、わたしが命をかけて創り上げてきたそれが、文字通り命をかけたことにより、逆に完璧なる自虐行為であったこと自分を封印していたことがわかったからであり、そしてそこまでかけてでも欲しかった「わたしがここにいることに意味を見出す」ことを自分でしている限り、わたしは解放されないとわかったからだ。

意味は、受け取るものだった。他者がわたしに教えてくれるものは、わたしがひとりでしようとして全く逆の行為になっていた「わたしがここにいることに意味を見出す」ことだった。それは、愛という名前で、わたしが必死になって断絶してきた世界との再接続のことだった。

幼少期のわたしがしてきた自分の感覚を殺す行為を、わたしは今再び'踏襲'している。今もプライドは持っている。それは、「そのままの自分でここに在る」というプライドで、わたしがわたしを計算しない、勝手に定義付けない(他者のせいにして自分を世界から隔絶しない)というプライド。

そもそも繋がったものであり、関わりあっているものを自分から断絶しようとしていたのは、わたしがわたしを愛したかったからだけど、その愛はわたしを孤立させるものだった。その行為は自分の周りを傷付けていたけどわたしのことは守るという、周りを巻き込んだ残酷な体験だった。愛されること/繋がることを拒むことで、わたしは自分を守るという体をとりながら必死に他者を守っていた。わたしの思い込み(だけど必要だった概念)の世界の中で、他者世界と自分を傷つけないことで、わたしはわたしを守っていた。与えないことで、与えている気になっていた。

世界はやさしい。
それは、わたしがわたしにやさしくなったからだ。そのままでいることをゆるしたからだ。ゆるさないとかゆるすとか、実は世界からしたらちっぽけなことで、たぶんわたしがそれを選択してもしていなくても変わらず、今日世界はここにあるし、わたしの認識がどうであろうが、今日もわたしはここに存在する(今のところ)。

意味をつけることには意味がない。
でも、とてもとても意味がある。

だから、その意味を知るために、そして知らないままでいるために、今日もわたしは今自分が感じていることを受け取り、それをそのままわたしの外に出す。

世界と繋がっていることをとおして、世界と繋がっていく。
そもそも繋がっているものを繋げたままにしておく。
感じたことを伝える。
例え、わたしの頭が過去の習慣の名残によってそれを拒んだとしても、わたしは自分の感覚を信じる。


おしまい。


このnoteは、こちらのスタエフで話したことで終わった感覚(終わったから言葉にできた部分)を、

沖縄のリトリートで一緒だったchamiちゃんのnoteを、朝起きて1番に読んだことで出てきた出てこれたものを、そのまま書いた。

このnoteを書くことに、意味があるかないかはわからない。でも書けてよかったと思う。

自己満足でしかないけど、おふたりに、そしてこれまでわたしと関わってくださった全てのみなさんに、感謝の気持ちを伝えたいです。
本当にありがとうございました。

これからもよろしくお願いします。


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